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われから(7/13)恐れていた事が

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(七)  町子は声を立てて笑うようになって、時はあらたまの春になった。けれど美尾は日々、安らかではない面持ちで、時には涙を浮かべることもあり、それを血の道のせいだと自分では言っていた。与四郎はそれほど疑うこともなく、ただこの子の成長のことだけを語って、いつもの洋服姿で立派でない勤務に、手弁当を提げて昨日も今日も出た。  美尾の母親は東京の住まいも物憂く、中途半端な朝夕をおくるのに飽きたので、一つにはあなた達へのお世話の手間を軽減するために、普段からご依頼を受けておりました従三位の軍人大将様が京都にご栄転ということがあり、お屋敷をあちらに建てられたのを機会にそこの女中リーダーとしての勤務が終身の予定で、老後も扶養していただく契約が決まったので、もうこの地にはいません、また来ることがあれば一泊させて下さい、その他のご厄介にはなりませんと言うと、与四郎はそれでも一人の母親であるし、美尾の心細さにも配慮して、あなたもご高齢のことですし、いかに条件が良いといっても他所での勤務という事をさせましては子である我々には申し訳の言葉がない、是非とも思いとどまって下さいと言っても、いやいやそういった事はお前さま昇進のその時に言って下さい、今は聞きませんと言って単身の荷物一式だ。谷中の家には入居者募集のプレートが貼られて船の便でその地へと旅立った。  一か月が過ぎた。黒い雲と暗い月の夕方、与四郎は調べ物の残業があって、家に帰ったのは日没後の八時だった。いつもなら薄暗いランプのもと、風車やおもちゃの犬が散らかって、まだ母親というのも似合わない美尾が胸元をくつろげて幼児に授乳する美しい姿を見るはずだ。格子戸の外から見える燈火はぼんやりとしていて、障子に映る影もない。お美尾お美尾と呼びながら入ると、隣りから返事が聞こえて、今まいりますと言うあいさつは同じだが、言葉は別の人であった。  隣の奥さんが入ってくる。見ると胸には町を抱いている。与四郎は胸騒ぎがして、美尾はどこへ参りました、買い物にでもゆきましたかと聞くと、奥さんは眉を寄せて、ええそのことなんです、そう言って眠りから覚めた胸の中の町がクスリクスリとむずがるのをおおいい子いい子と揺すぶって、言葉を切った。  灯りは私がたったいま点けたのです、本当は今までお留守番をしていたのですが、うちのやんちゃがむつかしやを言うので小言を言おうとして空け...