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われから(3/13) しかしこれは実は、DNAレベルでのことなのであった

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        ( 三)  落ち葉を焚いている煙が流れてくるのかそうではないのか、庭の木立をかすめて裏通りの町屋のほうへと毎朝たなびいてくるのを、ほら金村の奥様のお目覚めだといつも人がうわさをする。しかし習慣は恐ろしい。朝食前の一風呂は、これが終わるまでは箸も取れず、一日おこたることがあれば終日気持が尋常でない。物足りないような感じがする。  そうは言っても聞く人からしたらお洒落な人の物好きと思うような事で、自分としてはまことに仕方のないクセを付けて、今さら面倒と思う時もあるが、使用人の人達がよく分かっていてご指示がなくても芝の枝を折って火に焚べ、お加減がよろしゅうございますと朝の布団に報告するので、もう止めましょうと何度も思いつつもなおも変わらない贅沢なイベントだ。ふるいに残った米粒を入れたぬか袋で磨き上げて、出るとさらに白菊のように化粧を濃くする。これも今さらやめられなくて、そんな美肌になった。  年齢を言えば二十六だ。遅咲きの花でも枝先で萎れる頃だけど、服装が良くて元々の美しさも兼ね備わって、五つ位は若く見られるのはお得な生まれなのであろうか。お子様がいないから、と美容師のトメさんが言ったが、いれば少しは落ち着くのか。今だに少女のスピリットが抜けなくて、お歯黒に代わって富裕層妻の流行となった金歯、その口元でああしろこうしろとそれっぽく、わらわらといる家内の人々に指示を出すものの、ご主人様を勧誘して日本橋十軒店にお人形を買いに行くとか、一家の妻のする事には思われない。頭巾で目から下を覆ってショールを肩にまとい、夫君と共に川崎大師へ参詣の途中などは、駅に集結する人々から、あれは新橋の夜の女性ですか、どこの方であるのでしょうかと囁かれて、奥様とも呼ばれる身分ながらこれがけっこう嬉しくて、いつしかそんな好みになった。一つにはルックスがそうさせるのだ。  目鼻立ちから髪のかかり方、歯並びのきれいなところまで、DNAとはよく言ったものである。これはお母さんそのままの生き写しなのだ。父上というのは赤鬼の与四郎といって、十年前までは目を強烈に光らせて生きていたものだったが、人の生き血を搾っていたその報いであろう五十代にも届かず突然の脳溢血、一晩で世界の年貢の納め時となった。葬儀は造花でダイナミックに飾られて見事な送られ方ではあったのだが、見物の人々からは爪弾きの扱いで...

われから(2/13)わたしから

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(二)  机はどこにでもある白木製で、そこに白い木綿布をかけ、百貨店のペン立てに中国の晋から唐までの楷書体手本の小冊子とか、リス毛の書道筆とか、ペンとかナイフとかも一緒に入れて、首の欠けた亀の子型の水入れに赤インクの瓶がひしめいて、歯磨きの箱がオレもと領土を主張して割拠状態にある、その机に体重をかけて洋書を開いている。年齢ははたち位で三まではいかない、五分刈りの丸い頭で顔は長くなく角ばってもいない、眉は濃くて眼は黒目がちだ。全体に男前のほうなんだけどいかんせんダサい。ゴボウと呼ばれるその根のように細い縦の縞模様のワタを入れた半天に何も考えのない白い木綿の帯、青い毛布を膝に置いて、前傾姿勢になって両手で頭をしっかとおさえている。  奥様は無言でビスケットを机の上にのせた。おまえ夜更かしをするならするようにして、寒さしのぎをしておいたら良いのに、湯沸かしは水になって、火といったらホタルの火のような、よくこれで寒くないねえ、余計なお世話だけど私が熾してやりましょう、炭取りカゴをここへ。  学生は恐縮して、いつも無精をいたしております、申し訳のないことで、と有難いながらも戸惑って籠を差し出すと、みずからは中皿に桃を盛った姿で「これは私の趣味なの」と炭を入れはじめた。  自己満足でもある好意のしるしで蛍火を慎重に挟み上げて、積み立てた炭の上に載せ、近くの新聞を三回四回と折って、隅の方からそよそよとあおいだ。いつしか火はこれからそれへと移って、パチパチと勢いよく響く。青い炎がひらひらと燃えて、火鉢の縁は少し熱くなった。夫人は何か仕事をしたかのように「千葉もあたって」と少し押しやって、今夜は特に寒いですよね、と言って指輪の輝く白い指先を、藤の蔓で編まれた、火鉢のふちのところにかけたのだ。  学生千葉はさらに恐縮して、これはどうも、これは、と頭を下げるだけであった。実家にいた時期には姉という人が母親の代わりに面倒を見てくれた、その頃その時を思い出して、そもそも奥様の派手なつくりと田舎者の姉上と、似たところなど一切ないけれど、高校の試験前に徹夜を続けていた時にはこんな事を言って、こんな仕草をして、さらには蕎麦がきをつくってくれて、あったまりなさいと言ってくれたこともあった。懐かしいのはその昔で、有難いのは今の奥様の思いやりだと、普段から世話になっていることもあって、張り気味の肩も縮ま...

われから(1/13)若妻、夫にモヤモヤする

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(一) 霜の降る夜が更けてゆく。吹く、というほどでもない風が、横の開き戸の隙間から入って枕元に届く。障子がかさこそと紙の音を立ててものがなしく、寂莫としている。旦那様は留守だ。  寝室の時計が十二の音を打つまで、妻はどうしても眠ることができず、寝返りを繰り返すうちに少しイライラしてくる。  どうでもいい現実の諸事情から、旦那様が去年の今頃には「コウヨウカン」に通い詰め入り浸るようになり、ご自身は隠しなさったけれども、外出着のお袂から縫い取り縁のハンカチを発見した時の憎さ。  ガチガチに詰めて詰めて、詰め抜いてもう今後は絶対に行きません、同室のサワキの発言のイとエを取り違えることはあってもこの約束は絶対に守ります、かんべんしてくださいと謝罪しなさっていた時の気分の爽快さ。ここ数か月のイガイガが落ちて、胸のすくほど嬉しく思いましたのに、またかよ最近折々のお泊りである。水曜会とかいうのの方々や、なんとかクラブのお仲間にやんちゃなお方が多いからそこに引っ張られて自然に身持ちが悪くおなりになった「朱に交われば」ということをお花の師匠様が口癖にしておられたけれど本当にあれは嘘ではないことだ、昔はあんなふうな口先の人ではなく、今日はどこそこで芸者を呼んで、こういう不思議な踊りを見てきたとか、おなかが痛くなるような面白いことをもう真面目な顔でおっしゃったものだけれど、今日この頃の性格のたちの悪さはなんだ。憎たらしいくらいにお利口さんなことばかりお言いあそばして、わたしのような世間知らずを手の平の上で丸め込んで、全くもってつかまえようのないお方だ、ああ今晩はどこにご宿泊で、明日はどういう嘘を言ってお帰りになるのか。夕方にクラブに電話をかけたら三時頃にお帰りとのこと、また吉原の式部嬢のところじゃないか、あれだって縁切りとかおっしゃってからはや五年、旦那様だけが悪いのではなくて、季節のお届け物など、ニクイ配慮を見せるからお気持ちがつい浮かれておのずから足も向こうというものだ、全くビジネス嬢とはムカつくものだとだんだんと考えごとが増えてくるといよいよ寝られんで、妻は後ろ前に掛けていたちりめん生地のカイマキをはねのけて、山梨産郡内織の布団の上に起き上がった。  八畳の座敷に、屏風が六枚立っている。枕の先には桐製胴の火鉢と煎茶の道具がある。煙草盆はローズウッドで、キセルは接続部のラオ管が朱色だ...

十三夜、目次その他

十三夜 樋口一葉 目次 (訳文にリンクしています。サブタイトルは筆者によるものです) その一「ほとほと嫌になりました」 上流家庭に嫁いだ関子はある夜、実家を訪ねた。しかし様子がおかしい(本文「上」前半) その二「調子に乗りやがって」 夫のひどさを訴える娘の話に、母は激怒する。しかし父が口を開くのだった(本文「上」後半) その三「なんでいまさら」 帰りの人力車。ドライバーは、忘れられないあの人であった(本文「下」全文) 登場人物 関子:主人公。原文では「お関」「関」 関子の父親:斎藤主計(サイトウカズエ) 関子の母親:斎藤主計夫人 原田勇:関子の夫(登場しない) 原田太郎:関子の息子(登場しない) 高坂録之助:好きだった男 構成 上下全二章 約13,000文字 初出 1895(明治28)年12月10日『文藝倶樂部』臨時増刊「閨秀小説」博文館 ※閨秀=優秀な女性 ( 樋口一葉作品現代訳、目次 )

十三夜、その一「ほとほと嫌になりました」

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  上  いつもなら黒く輝く人力車で静々と、ああ玄関で音がやんだ、娘じゃないのかと両親に迎えられていた。それなのに、今夜は流しの車さえも十字路で見送って、悄然と格子戸の前に立つ。  家の中では父親が相変わらず元気な声で、言えばおれも成功者の一人だ、ずっと素直な子供を持って、育てるには手がかからず人にはすごいと言われる、不相応に欲を張らなければこれ以上の望みもない、いやいや有難い事だと話されている。その相手はきっとお母さんだ。ああ何もご存じなくてあんなふうに喜んでおいでになるところに、どの面下げて離婚届を見て下さいと言えるのか。叱られるのは必定だ、太郎という子もあるのに置いて飛び出してくるまでには様々に色々に思案もし尽しての上だけど、いまさらにお年寄りを驚かせてこれまでの喜びを水の泡にさせるのです。つらい。  もう話さずに帰ろうか。帰れば太郎の母と言われていつまでもいつまでも原田の奥様だ、両親には大した夫がいると誇りに思わせ、私さえ節約すれば時々はお口に合うものやお小遣いも差し上げられるのに、思うままを通して離婚となれば太郎には継母の憂き目に遇わせ、両親には今までの誇りの鼻をにわかに低くさせてしまう。他人の思惑、弟の行く末、ああこの私一人の気持から将来の現実を潰してはいけない、帰ろうか、帰ろうか、あの鬼のような我が夫のもとに帰ろうか、あの鬼の、鬼の夫のもとへ、ああいやいやと身を震わす途端によろよろとして思わず格子に「がたん」と音をさせると「誰だ」と父親の大きな声。道行く悪ガキのいたずらだと間違えてるんだ。  外から「おほほ」と笑って、おとっさん私でござんすとどうにも可愛い声。ああ誰だ、誰なんだと格子を引き開けて、おうお関か、どうしたそんな所に立っていて、どうしてまたこんな遅くに出てきた、車もないし女中さんも連れてないのか、まあまあ早く中に入れ、さあ入れ、どうもいきなり驚かされたようで焦るよな、戸は閉めなくていい、俺が閉める、とにかく奥が良い、ずっとお月様のさすほうに、さあ座布団に乗れ、布団に、どうも畳がきたないからオーナーさんに言ってはおいたが職人さんの都合があると言ってさ、遠慮も何もいらない服が汚れるからそれを敷いてくれ、やれやれどうしてこんな遅くに出てきたんだ、お宅では皆さんお変わりもないですか。  いつもの通りにもてなされる。針のむしろに乗るようで奥様扱...

十三夜、その二「調子に乗りやがって」

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   嫁いでから七年の間、夜になってから訪れたことは今までなく、また手土産もなく一人歩きで来ることなど一切なかった。思いなしか服装もいつもほどキラキラしていない。久しぶりに会えた嬉しさでそれほど気にはならなかったが、夫からの伝言というもの一つの言及もなく、無理に笑顔でいるがその奥でどこかしおれている。何か事情がある。父は机の上の置き時計を眺めて「もう10時になるな」  関は泊まっていっても良いのか、帰るのならもう帰らないといけないぞ、と遠くから見るような親の顔を娘は今更のように見上げてお父様「私はお願いがあって出てきたのです」  どうか聞いてくださいとキッとなって畳に手をついた時、はじめてひとしずくの悲しさをこぼした。それは何層にも重なっている。  父は穏やかでない表情を動かして「改まって何だ」と膝を前に進めた。   私は今夜限りで原田には帰らない、その決心で出て参ったのです。勇の許可で参ったのではなくて、あの子を、太郎を寝かしつけて、もうあの顔を見ない決心で出て参りました。私の手でなければまだ誰の子守りでも承知しない、あの子をだまして寝かして夢の中に。私は鬼になって出て参りました。  お父さんお母さん、察して下さい。私は今日まで原田という人についてお耳に入れたことはなく、勇と私の関係を人に話した事はありませんけど、百回も千回も考え直して、二年も三年も泣き尽くして、今日という今日はどうしても離婚を認めて頂こうと決心の気持を固めました。どうかお願い致します離婚を認めて下さい、私はこれから在宅仕事でも何でもして、亥之助の片腕にもなれるよう心掛けますから、生涯一人で置いてください。  ああと声が出るのを上着の下の袖で強く押さえた。水墨画の竹の幹が、紫に滲んで見えて切ない。いったい何があったのかと父も母も距離を縮めた。  今までは黙っていましたけど、私の家の夫婦差し向かいを、半日見ていただければ大体お分かりになるでしょう、ものを言うのは用事のある時にいきなり申しつけられるだけで、朝起きてご機嫌を伺うとふと横を向いて、庭の草花を不自然に褒める、腹は立ちますが夫のなさることだからと我慢して私は何も言い争ったことはありませんけれど、朝ご飯をあがる時からお説教が止まらず、使っている方たちの前でいちいち私自身の不器用不作法をお並べになり、それはまだまだ辛抱もするわけなんですが...

十三夜、その三「なんでいまさら」

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  下  明るい月に風の音が響く。虫の声は途切れがちでものがなしく、上野に入ってからまだやっと百メートルくらいかと思っていると、どうしたのか車夫がぴたりと梶棒を止めた。誠に申し訳ございませんがわたくしはこれで失礼をいたします、お会計はいただきませんのでお降りになってください、突然そう言われて思いがけず関子は胸をどきどきとさせた。  あぁあなたそんなことを言っては困ります、少し急ぎの用事でもあるので割増もしますからご足労をお願いします、こんなさびしいところだと代わりの車もないでしょうし、これは困ってしまいますよ、事情がありそうだけど進んでください。少しふるえながら、頼み口調でそう言った。  上乗せが欲しいというわけではないのです、わたくしからのお願いです。どうかお降りください、もう引くのがいやになったのでございます。車夫がそう言った。  それではあなた具合でも悪いのですか、まあどうしたと言うのですか、ここまで引いてきていやになったでは済まないんじゃないですか、と声に力を入れて、キツめに車夫に言った。  申し訳ございません、もうどうにもいやになったのですんで、と言って提灯を持ったまま、ふと脇に逃げた。あなたはわがままの車屋さんですね、それならお願いした場所までとは言いません、代わりの車のあるところまで行ってくれればそれで良いです、お会計はしますからどこでもその辺りまで、せめて広小路までは行ってくださいよと声を優しくしてお願いすると、たしかにお若い方でもありこのさびしいところに降ろされては確実にお困りになりますね、これはわたくしが至りませんでした、ではお乗りいただきます、お供いたします、まあ驚きますよねと言ってワルモノらしくもなく提灯を持ちかえた。  関子はここで胸に手をやり、車夫の顔を見た。二十五六だろうか、色黒で身長は低い。痩せ気味で、顔は月にあてないように背けている「あの顔は、誰かだった」  誰かに似ている。人の名前もすぐそこまで出かかっている「もしかしてあなた」と勝手に出た言葉に「え」と驚いて振り仰ぐ男。あぁあなたはあの方じゃないですか、まさか私をお忘れではないでしょうと車からあわただしく降りてつくづくと見つめた。  あなたは斎藤のお関さん、お恥ずかしいこんな格好で、後ろが見えないから何も気付かずにいましたが、それでも声で気が付くはずなのに、自分は相当に感...