十三夜、その三「なんでいまさら」
下
明るい月に風の音が響く。虫の声は途切れがちでものがなしく、上野に入ってからまだやっと百メートルくらいかと思っていると、どうしたのか車夫がぴたりと梶棒を止めた。誠に申し訳ございませんがわたくしはこれで失礼をいたします、お会計はいただきませんのでお降りになってください、突然そう言われて思いがけず関子は胸をどきどきとさせた。
あぁあなたそんなことを言っては困ります、少し急ぎの用事でもあるので割増もしますからご足労をお願いします、こんなさびしいところだと代わりの車もないでしょうし、これは困ってしまいますよ、事情がありそうだけど進んでください。少しふるえながら、頼み口調でそう言った。
上乗せが欲しいというわけではないのです、わたくしからのお願いです。どうかお降りください、もう引くのがいやになったのでございます。車夫がそう言った。
それではあなた具合でも悪いのですか、まあどうしたと言うのですか、ここまで引いてきていやになったでは済まないんじゃないですか、と声に力を入れて、キツめに車夫に言った。
申し訳ございません、もうどうにもいやになったのですんで、と言って提灯を持ったまま、ふと脇に逃げた。あなたはわがままの車屋さんですね、それならお願いした場所までとは言いません、代わりの車のあるところまで行ってくれればそれで良いです、お会計はしますからどこでもその辺りまで、せめて広小路までは行ってくださいよと声を優しくしてお願いすると、たしかにお若い方でもありこのさびしいところに降ろされては確実にお困りになりますね、これはわたくしが至りませんでした、ではお乗りいただきます、お供いたします、まあ驚きますよねと言ってワルモノらしくもなく提灯を持ちかえた。
関子はここで胸に手をやり、車夫の顔を見た。二十五六だろうか、色黒で身長は低い。痩せ気味で、顔は月にあてないように背けている「あの顔は、誰かだった」
誰かに似ている。人の名前もすぐそこまで出かかっている「もしかしてあなた」と勝手に出た言葉に「え」と驚いて振り仰ぐ男。あぁあなたはあの方じゃないですか、まさか私をお忘れではないでしょうと車からあわただしく降りてつくづくと見つめた。
あなたは斎藤のお関さん、お恥ずかしいこんな格好で、後ろが見えないから何も気付かずにいましたが、それでも声で気が付くはずなのに、自分は相当に感度の低い人間になりましたとうつむいて自身を恥じると、関はその男の、つむじからつま先までを、ぼんやりと目で追った。
いえいえ、私だって道で出会ったぐらいではまさかあなだとは気が付かないです、もう今の今まで知らない他人の車屋さんとだけ思ってましたよ。
お分かりでなかったのは当然です、残念なことでしたが分からなかったので。すみませんでした。
ああ、いつからこのお仕事で、よくその細いお体で、大丈夫ですか。伯母さまがご実家に引き取られておいでになって、小川町のお店をお止めになられたというお話はよそながら聞いてもいましたけれど、私も昔の自分ではないので色々と事情があって、お会いしに行くどころかお手紙を書くこともできませんでした。今はお宅はどちらなんですか、奥様もお元気ですか、お子さんもおできですか。今では私は時々小川町の百貨店を見にゆきます度に、昔のお店がそっくりそのまま煙草店のノトヤというのになっておりますのを、何度通っても覗いてしまって、ああ、高坂の録さんが子供であった頃に、学校の行き帰りに寄っては巻煙草のこぼれをもらって、イキがって吸っていたものだけど、今はどこでなにを。気持の優しい方だから、こんな難しい世の中でどんな風に世渡りをしておいでになるのだろうか、それも気にかかっていまして、実家に行く度にご様子を、もしかして知っているかと聞いてはみるのですが、猿楽町を離れたのが今から五年前で、ご消息を聞く縁が切れてしまっていて。
どれだけ懐かしく思っていたことか、と自身の境遇も忘れて関子は問い続けていた。男は手拭で、流れる汗をぬぐった。
お恥ずかしいところに落ち入りまして、今は家というものもございません。居場所は浅草の安い宿で、ムラタというところの二階でぐだぐだしていて、気が向いた時は今日みたいに遅くまで引いていることもありますし、でもいやだと思ったらその日一日ごろごろして、煙みたいに暮らしているんです。お嬢さんあなたは相変わらずの美しさです、奥様におなりになったと聞いて、その時から一度は拝見できるか、生涯でもう一度お言葉を交わすことができるかと、夢のように願っていました。今日までは求められない命なんだ捨てたんだということにしていましたが命あるからこそご対面できました、ああ、わたくしを高坂の録之助だと、よく覚えていてくれました、かたじけなくございます。そう言って下を向いた。
関子はさめざめと泣いていた。あなたは一人ではない、この世界にそんな悲しい人はいない「そう思ってほしい」
それで奥さんは、と関子が聞くと、ご存じでございましょう筋向いの杉田屋の娘です。色が白いとか服装はどうだとか言って、世間の人が見境なくもてはやした女性でした。わたしがどうにも遊び呆けて家にも寄り付かなくなったのを、身を固める時に固めないからだ、と事情の分からない親族の者が意味不明なことを言って、母親もそれならと乗ってしまい是非もらえ、とにかく貰えとめっちゃうるさかった。もうどうでもいい、いい、勝手にしろよと彼女を家に迎えたのは、ちょうどお嬢さんがご懐妊だと聞きましたその頃のことでした。一年たつとわたしのところでも人からお目出とうを言われて、子犬のお守りや赤ちゃん風車を並べるようになりましたけど、そんなことでわたしのすることが変わるわけないんです。他人様はルックスの良い奥さんを持たせればおとなしくなるか、子供が生まれれば改心するかと思っていたでしょうけれど、たとえ小野の小町と古代中国の伝説の美女西施が手を取ってやって来て、その美しさが衣を通り抜けたというソトオリの衣通姫が舞を舞って見せてくれてもわたしの遊び癖は治らないと決意していたところに、なんで甘い匂いのする赤ん坊の顔を見て一念発起などできますか。遊びまくって飲みまくって家も商売もガン無視で箸にも手を触れなくなったのが三年前、お袋は田舎に嫁いだ伯母のところへ引き取ってもらいましたし女房は子供と一緒に実家へ帰したまま音信不通、女の子ということもあって惜しいとは思いませんでしたが、その子も去年の暮れにチフスに罹って亡くなったと聞きました。女性は大人びているから、その時にはきっとトトサマとか何か言ったのでしょう、いれば今年で五つになります。
「つまらない身の上ですよ、お話にもなりません」男はそう言って薄暗い顔に笑顔を作った。
お嬢さんだということも知らなくて、全くわがままの無作法でした。さあお乗り下さいお供致します、突然のことでさぞ驚かれたでしょう。車を引くというのも名ばかりです。何が楽しくて梶棒を握って、何を望んで牛馬の真似をするのか。お金が貰えたら嬉しいのか、酒が飲めたら気持ちがいいか。考えだすと何もかも全部が嫌で、お客様を乗せようが空車の時だろうが嫌になるとどうにも嫌になるんです、呆れ果てたわがまま男です、愛想が尽きるではないですか。さあお乗り下さいお供致します。
そううながされたが、知らなかったのなら仕方がないけれど知ってしまったらもうこの車には乗れません、それでもこんなさびしいところを一人で行くのは心細いです、だから広小路に出るまではただ、一緒にいてください「話しながら行きましょう」
関子は幌を少し引き上げた。塗り下駄の音が小さく響いた。
かつての知人の中でも、忘れられない縁のある人だった。神田猿楽町の東南隣り、小川町の高坂は煙草店の一人息子で、店はかなり高額な品物も扱っていた。それがこんなふうに日に焼けて色黒の顔になっている。その頃の彼は唐桟の上下にシックなエプロン姿で、顧客をそらさない話術を持ち、笑顔は爽やかで、若いのによくやっている、お父さんの代よりもむしろお店は賑やかになってと評価された利発な人が、これだけの変り様である。自分の結婚話が出始めた時期からやけになって遊ぶようになり底が抜けた。高坂の息子はまるで人が変ってしまった、魔が差したのか祟りでもあるのか、もはや尋常ではないとその頃には聞いていたが、今日のこの夜に見ているのはどうにもただの人でしかない、その有様であった。
安宿泊りでおられようとは思いもしなかった、わたしはこの人に想われて、十二の年から十七まで明け暮れに顔を合わせるその度に、将来はあの店のあの場所に座って、新聞を見ながら商売をするんだとそう思ってもいたけれど、予想外の人に縁が決まった。両親が言うことであればどんな異存を入れられるというのか。煙草屋の録さんにと思ってもそれはほんの子供心で、べつに先方から口に出して言ったことはない、こちらからなどさらにない、これは手の届かない夢のようなものなんだ、思いは断ち切れ、断ち切ってしまえ、あきらめよう。そう心を決めて今の原田への入籍とはなったけれど、最後まで涙がこぼれて忘れることのできなかった人だ。
わたしが想った位にはこの人も想っていて、それだからのこの境遇かもしれない、なのに自分はこんな丸まげなんかで澄ましたような姿で、どれほどに憎い奴と思われているのだろう、そんな楽しい今では夢にもないけれど。
関子は振り返って録之助を見た。なにを考えているのか、ぼおっとした顔をしている。偶然に出会えた、その関子に対して、それほど喜んでいる感じでもなかった。
上野広小路に出ると車もあった。関子は財布からお札をいく枚か出して、小さな菊を描いた和紙に、しずかに包んだ。
録さん、これは誠に失礼ですが、何かの足しにしてください。久しぶりにお目にかかってお話したいことは何か沢山ある気がします。でも口には出せません、察してください。ではわたしは、お別れに致します。
だいぶ、体を粗末にしているようだけど大事にして。
伯母さんも早く安心させてあげてください、わたしも影ながら祈っています。どうか昔の録さんに戻って、立派にお店をお開きになるところを、見せてください。
それでは、と挨拶をした。
録之助は和紙の包みを受け取った。ご辞退申し上げるところですが、お嬢さんの手から下されたのであればありがたく頂いて決して忘れません、お別れを申し上げるのがつらいといっても、これが夢なのなら仕方のないことです。
さあおいでなさい、わたくしも帰ります。おそくなると道がさびしいですから。そう言って、空の車を引いて、後ろを向いた。
その人は東へ、この人は南へ。大通りの柳が月の影になってなびいている。力ない塗り下駄の音。村田の二階と原田の奥室。
憂愁はそれぞれの世界にあり、さまざまな事を思うのだった。
(十三夜、完)

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