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十三夜、目次その他

十三夜 樋口一葉 目次 (訳文にリンクしています。サブタイトルは筆者によるものです) その一「ほとほと嫌になりました」 上流家庭に嫁いだ関子はある夜、実家を訪ねた。しかし様子がおかしい(本文「上」前半) その二「調子に乗りやがって」 夫のひどさを訴える娘の話に、母は激怒する。しかし父が口を開くのだった(本文「上」後半) その三「なんでいまさら」 帰りの人力車。ドライバーは、忘れられないあの人であった(本文「下」全文) 登場人物 関子:主人公。原文では「お関」「関」 関子の父親:斎藤主計(サイトウカズエ) 関子の母親:斎藤主計夫人 原田勇:関子の夫(登場しない) 原田太郎:関子の息子(登場しない) 高坂録之助:好きだった男 構成 上下全二章 約13,000文字 初出 1895(明治28)年12月10日『文藝倶樂部』臨時増刊「閨秀小説」博文館 ※閨秀=優秀な女性 ( 樋口一葉作品現代訳、目次 )

十三夜、その一「ほとほと嫌になりました」

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  上  いつもなら黒く輝く人力車で静々と、ああ玄関で音がやんだ、娘じゃないのかと両親に迎えられていた。それなのに、今夜は流しの車さえも十字路で見送って、悄然と格子戸の前に立つ。  家の中では父親が相変わらず元気な声で、言えばおれも成功者の一人だ、ずっと素直な子供を持って、育てるには手がかからず人にはすごいと言われる、不相応に欲を張らなければこれ以上の望みもない、いやいや有難い事だと話されている。その相手はきっとお母さんだ。ああ何もご存じなくてあんなふうに喜んでおいでになるところに、どの面下げて離婚届を見て下さいと言えるのか。叱られるのは必定だ、太郎という子もあるのに置いて飛び出してくるまでには様々に色々に思案もし尽しての上だけど、いまさらにお年寄りを驚かせてこれまでの喜びを水の泡にさせるのです。つらい。  もう話さずに帰ろうか。帰れば太郎の母と言われていつまでもいつまでも原田の奥様だ、両親には大した夫がいると誇りに思わせ、私さえ節約すれば時々はお口に合うものやお小遣いも差し上げられるのに、思うままを通して離婚となれば太郎には継母の憂き目に遇わせ、両親には今までの誇りの鼻をにわかに低くさせてしまう。他人の思惑、弟の行く末、ああこの私一人の気持から将来の現実を潰してはいけない、帰ろうか、帰ろうか、あの鬼のような我が夫のもとに帰ろうか、あの鬼の、鬼の夫のもとへ、ああいやいやと身を震わす途端によろよろとして思わず格子に「がたん」と音をさせると「誰だ」と父親の大きな声。道行く悪ガキのいたずらだと間違えてるんだ。  外から「おほほ」と笑って、おとっさん私でござんすとどうにも可愛い声。ああ誰だ、誰なんだと格子を引き開けて、おうお関か、どうしたそんな所に立っていて、どうしてまたこんな遅くに出てきた、車もないし女中さんも連れてないのか、まあまあ早く中に入れ、さあ入れ、どうもいきなり驚かされたようで焦るよな、戸は閉めなくていい、俺が閉める、とにかく奥が良い、ずっとお月様のさすほうに、さあ座布団に乗れ、布団に、どうも畳がきたないからオーナーさんに言ってはおいたが職人さんの都合があると言ってさ、遠慮も何もいらない服が汚れるからそれを敷いてくれ、やれやれどうしてこんな遅くに出てきたんだ、お宅では皆さんお変わりもないですか。  いつもの通りにもてなされる。針のむしろに乗るようで奥様扱...

十三夜、その二「調子に乗りやがって」

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   嫁いでから七年の間、夜になってから訪れたことは今までなく、また手土産もなく一人歩きで来ることなど一切なかった。思いなしか服装もいつもほどキラキラしていない。久しぶりに会えた嬉しさでそれほど気にはならなかったが、夫からの伝言というもの一つの言及もなく、無理に笑顔でいるがその奥でどこかしおれている。何か事情がある。父は机の上の置き時計を眺めて「もう10時になるな」  関は泊まっていっても良いのか、帰るのならもう帰らないといけないぞ、と遠くから見るような親の顔を娘は今更のように見上げてお父様「私はお願いがあって出てきたのです」  どうか聞いてくださいとキッとなって畳に手をついた時、はじめてひとしずくの悲しさをこぼした。それは何層にも重なっている。  父は穏やかでない表情を動かして「改まって何だ」と膝を前に進めた。   私は今夜限りで原田には帰らない、その決心で出て参ったのです。勇の許可で参ったのではなくて、あの子を、太郎を寝かしつけて、もうあの顔を見ない決心で出て参りました。私の手でなければまだ誰の子守りでも承知しない、あの子をだまして寝かして夢の中に。私は鬼になって出て参りました。  お父さんお母さん、察して下さい。私は今日まで原田という人についてお耳に入れたことはなく、勇と私の関係を人に話した事はありませんけど、百回も千回も考え直して、二年も三年も泣き尽くして、今日という今日はどうしても離婚を認めて頂こうと決心の気持を固めました。どうかお願い致します離婚を認めて下さい、私はこれから在宅仕事でも何でもして、亥之助の片腕にもなれるよう心掛けますから、生涯一人で置いてください。  ああと声が出るのを上着の下の袖で強く押さえた。水墨画の竹の幹が、紫に滲んで見えて切ない。いったい何があったのかと父も母も距離を縮めた。  今までは黙っていましたけど、私の家の夫婦差し向かいを、半日見ていただければ大体お分かりになるでしょう、ものを言うのは用事のある時にいきなり申しつけられるだけで、朝起きてご機嫌を伺うとふと横を向いて、庭の草花を不自然に褒める、腹は立ちますが夫のなさることだからと我慢して私は何も言い争ったことはありませんけれど、朝ご飯をあがる時からお説教が止まらず、使っている方たちの前でいちいち私自身の不器用不作法をお並べになり、それはまだまだ辛抱もするわけなんですが...

十三夜、その三「なんでいまさら」

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  下  明るい月に風の音が響く。虫の声は途切れがちでものがなしく、上野に入ってからまだやっと百メートルくらいかと思っていると、どうしたのか車夫がぴたりと梶棒を止めた。誠に申し訳ございませんがわたくしはこれで失礼をいたします、お会計はいただきませんのでお降りになってください、突然そう言われて思いがけず関子は胸をどきどきとさせた。  あぁあなたそんなことを言っては困ります、少し急ぎの用事でもあるので割増もしますからご足労をお願いします、こんなさびしいところだと代わりの車もないでしょうし、これは困ってしまいますよ、事情がありそうだけど進んでください。少しふるえながら、頼み口調でそう言った。  上乗せが欲しいというわけではないのです、わたくしからのお願いです。どうかお降りください、もう引くのがいやになったのでございます。車夫がそう言った。  それではあなた具合でも悪いのですか、まあどうしたと言うのですか、ここまで引いてきていやになったでは済まないんじゃないですか、と声に力を入れて、キツめに車夫に言った。  申し訳ございません、もうどうにもいやになったのですんで、と言って提灯を持ったまま、ふと脇に逃げた。あなたはわがままの車屋さんですね、それならお願いした場所までとは言いません、代わりの車のあるところまで行ってくれればそれで良いです、お会計はしますからどこでもその辺りまで、せめて広小路までは行ってくださいよと声を優しくしてお願いすると、たしかにお若い方でもありこのさびしいところに降ろされては確実にお困りになりますね、これはわたくしが至りませんでした、ではお乗りいただきます、お供いたします、まあ驚きますよねと言ってワルモノらしくもなく提灯を持ちかえた。  関子はここで胸に手をやり、車夫の顔を見た。二十五六だろうか、色黒で身長は低い。痩せ気味で、顔は月にあてないように背けている「あの顔は、誰かだった」  誰かに似ている。人の名前もすぐそこまで出かかっている「もしかしてあなた」と勝手に出た言葉に「え」と驚いて振り仰ぐ男。あぁあなたはあの方じゃないですか、まさか私をお忘れではないでしょうと車からあわただしく降りてつくづくと見つめた。  あなたは斎藤のお関さん、お恥ずかしいこんな格好で、後ろが見えないから何も気付かずにいましたが、それでも声で気が付くはずなのに、自分は相当に感...