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わかれ道、目次その他

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わかれ道 樋口一葉 初出:1896(明治29)年1月『國民之友』 上中下、全三章 約八千字 主な登場人物 ※年齢、名前等、多少変更しました 吉三(吉):傘屋で働く二十前の若者(原文では十六才) 京子(お京):二十代後半の女性職人(原文では「お京」「二十才余り」) 目次 ※各ページにリンクしています。サブタイトルは筆者によるものです 上《お京と吉》 中《吉三》 下《わかれみち》 ( 樋口一葉作品現代訳、目次 )

わかれ道、上《お京と吉》

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上 「おきょうさんいますか」  窓の外に来てコトコトと枠を叩く音がする。誰ですか、もう寝ましたから明日来てくださいと嘘を言うと、寝てたっていいじゃないですか、起きて開けてくださいよ、傘屋の吉です、おれですと少し強く言う。  いやな子だね、こんな遅くに何を言いに来たの、またお餅のおねだりかと笑って、いま開けるからちょっと待っていてと言いながら、仕立てかけた生地に針留めをして立った。  二十代後半のしゅっとした女性だ。多めの髪を仕事が急ぎというので後ろで結んで、少し長めの黄色い八丈染めの前掛けにブチこわしの半天をはおって、急ぎ足で玄関におりて格子戸にそった雨戸を開けると「お気の毒さま」  すっと入ってきたのは「一寸法師」と呼ばれている町内の暴れ者だ。傘屋の吉といってもてあましの小僧である。年は二十前なのだがちょっと見たところは十五か六か、肩幅が狭くて顔が小さく、目鼻立ちはきりっとして聡そうだがどうにも背が低いので人が見下してあだ名が付いたのだ。失礼します、と火鉢のそばにずかずかと進むと、お餅を焼くには火が足りないよ、台所の火消し壺から消し炭を持って来てあんたが勝手に焼いて食べて、わたしは今夜じゅうにこれ一枚をあげなきゃならん、角の質屋の旦那様のお年始着だからと言って針を取ると、吉はふーんと言ってあのはげ頭には惜しいものだ、おれがその初物を着てやろうかと言うと、ばかなこと言って人の初物を着ると出世ができないと言うじゃないの、今から上に行くことができないのじゃしょうがないよ、そんなことを人のところでもしてはだめよと忠告すると、おれなんかご昇進はしたくないんだから人のものだろうが何だろうが着てかぶってやるのがお得だ、お姉さんいつか言ったよね、俺の運気が上がることになったら手織りの服を一式つくってくれると。本当につくってくれるのか。  真面目な顔でそう言うと、それはつくってあげられるようならお祝いものだもの喜んでつくるけどね、私の姿を見なさいよ、こんな格好で他人様の仕事をしている境遇じゃないですか、まあ夢のような約束よと笑っているので、いいよそれはできない時につくってくれとは言わない、お姉さんに運が向いた時のことだ、まあそんな約束でもして喜ばせておいてくれよ、こんな野郎が手織り一式をかぶったところでおかしくもないけどさと淋しい顔で笑う。 「そんなら吉ちゃん、あんたが偉くなった時...

わかれ道、中《吉三》

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中  今は亡くなった傘店の先代で「太っ腹のお松」といって一代で身を立てた、女子格闘家のような人物がいた。  六年前の冬のことだ。寺へ行った帰りに角兵衛獅子の子供を拾ってきて、いいよ親方がうるさく言ってきたらその時の事だ、可哀想に足が痛くて歩けないのかと言うと仲間の意地悪なのが置き去りにして捨てていったと言う、そんなところに帰る意味があるものか、ちっともおっかないことはないから私の家にいなさい、皆も心配することはない、なんのこの子くらいの二人や三人台所に板を並べてごはんを食べさせるのに文句が出るものか、誓約書を書いたとかいっても駆け落ちをする者がいたり持ち逃げするせこい者もいる、気持ち次第なんだ、馬には乗ってみろというやつだ、役に立つか立たないかは置いてみないと分かりはせん、おまえ浜新網町の貧民街に帰るのがいやならこの家を死に場所と決めて勉強しなくてはいけないよ、しっかりやってくださいよと言って聞かされて、吉よ吉よとそこからの頑張り今では防水加工職人「油引き」に、成人三人相当を一人で担当してアニソン混じりでやってしまう技量を見る者は、さすがは見る目があったと故人を称賛するのだった。  その恩人は二年後に亡くなり今の社長もその奥さんも息子の半次も気に入らない者ばかりだが、ここを死に場所と決めたのならば嫌だといってそれでどこへ行くのか、疳癪持ちで筋骨詰まってからなのか人からは一寸法師一寸法師とあざけられるのも口惜しくて、吉よお前は親の命日に焼肉食ったろ、ざまあみろ回りな回りな小仏はなぜ背が低い、親の日に魚食って飯食って、それで背が低いな、後にいるものだあれと同僚の鼻垂れに業務上の借りを返されて、鉄拳にて張り倒す度胸はあるがまことに父母いかなる日に亡くなられていつが精進日とも心得ぬおのれ、その心細さを思っては傘干し場のその傘のかげに隠れて地面を枕に仰向いて伏せてはこぼれる涙をのみこんでいる悲しみ、四季を通じて油で光る、めくら縞の作業着の袖口を振って火の玉のような子だと近隣で恐れられる乱暴者も、慰める人のない苦しさが胸にあふれる。  嘘でも優しく言ってくれる人がいれば、しがみついてとりついて離れたくない気持ちだよ。  仕事人の京子さんは今年の春からこの裏に引っ越してきたのだが物事に才気があって物件内での付き合いも良くて、 傘店は オーナーなのでそこの者には特に気遣いを示して店...

わかれ道、下《わかれみち》

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下  十二月三十日の夜、吉三は坂の上の取引先に納品の期限の遅れをお詫びに行って、帰りは急ぎ足だ。手はふところに入れて、履物の先にさわるものを蹴って遊んで、コロコロと転がるのを左右に追いかけて大きな溝の中に蹴落として一人でかかかと笑うのを聞く者はなくて、空のお月さまも煌々と照らしなさる。寒いということを知らないからただ心地よくて爽やかで「帰りはいつもの窓を叩こう」  そう思って横町を曲がると、急に後ろから追いかける人が両手で目を隠してふふっと笑う。誰だ誰だと指をなでて、なんだ京子さんか、小指の蛇がものを言う、おどかしてもだめだよと顔で振り払った。 「憎らしいわね、当てられてしまった」  京子が笑った。  頭巾で顔を覆って柔らかい二重織りの羽織を着ている。目だけを出しているがいつもの彼女ではなかった。京子は、美しく化粧をしていた。  吉三は下から見上げ、そして見下ろして「あなたどこへ行かれたんですか」  今日と明日はいそがしくてごはんを食べる時間もなさそうと言ってたじゃないですか、どこの営業だったのと疑いをかけられて、前倒しのお年始よと言ってとぼけていると、嘘を言ってるよ三十日に年始を受ける家はないでしょ、親戚にでも行かれたんですかと聞くと「とんでもない親戚に行くような身分になったの」  わたしは明日あの裏を引っ越すの、あまり突然だからきっとあんた驚くわよね、わたしも急だからまだ本当なのかと思う、とにかく喜んでよ悪い事ではないからと。  本当か、本当か、と吉は呆然として、嘘じゃないのか冗談じゃないのか、そんな事を言って驚かしてくれなくてもいい、俺はあなたがいなくなったら何も楽しい事がなくなってしまうんだから、そんな嫌な冗談はやめてください、ああつまらない事を言う人だと頭を振ると、嘘じゃないよいつかあんたが言ったとおりにすごい強運が馬車に乗って迎えに来たという事態なのであの裏のところにはいられない「きっちゃん」 「そのうちに手織り一式を作るから」そう言った。  いやだ、俺はそんなものを貰いたくはない、京子さんその運というのはつまらんところへ行こうというのではないのか、おとというちのハンジサンがそう言ってたよ、キャリアのお京さんは八百屋の横丁でマッサージをしているおじさんの仲介で、どこだかのお宅に出向されるらしいんだ、いや 新入り雑用という年齢ではないから、社長夫人のお付き...

にごりえ、目次その他

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  にごりえ 樋口一葉 初出:1895(明治28)年9月『文藝倶樂部』 にごりえ=濁った川 全八章、 約二万字 登場人物 お力:ナンバーワン嬢 お高:お力の同僚 結城:お力の本命 源七:過去の男 お初:源七の妻 太吉:その息子 あらすじ 男性相手のナンバーワン嬢お力はイケメンの結城を身の上話で落とそうとするが通用しない。お力に未練を持つ源七の妻お初は夫に見切りをつけ息子と共に離婚を決める。そして… 目次 (各章にリンクしています。タイトルは筆者によるものです) 一《ナンバーワン嬢お力》 二《雨の日》 三《お力と結城》 四《お初》 五《苦界》 六《お力の告白》 七《妻お初の決断》 八《エピローグ》 ( 樋口一葉作品現代訳、目次 )

にごりえ、一《ナンバーワン嬢お力》

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 おい木村さんシンさん寄っていってよ、お寄りといったら寄ってもいいじゃないですか、また素通りしてフタバ屋へ行く気でしょう、押しかけていって引きずってくるからそう思って、ほんとにお風呂なら帰りにきっと寄ってよね、うそつきだから何を言うか分からない、と店先に立って馴染みらしい突っかけ下駄の男をつかまえ、苦情を言うようなものの言い方だが、腹も立たんのか「あとであとで」と行き過ぎる後ろを、少し舌打ちしながら見送る。 「あとでもないもんだ来る気もないくせに、本当に妻帯者になっては仕方がないね」  と店に向かって敷居をまたぎながらひとりごとを言った。 「タカちゃん、かなりぶっちゃけですね。何もそんなに案じるにも及ばない、焼けぼっくいとなんとかで、またよりが戻ることもあるよ。心配しないで、お祈りでもして待てばいいよ」  となぐさめるような仲間の言い方に、リキちゃんと違ってわたしにはスキルがないからね、一人でも逃しては残念よ、私のような運の悪い者にはお祈りも何も効きはしない、今夜もまた受付か、なんたらことだ、面白くもない、と癇癪まぎれに店先に腰をかけて、駒下駄のヒールでとんとんと土間を蹴るのは、二十を過ぎて七つか十か、引き眉毛に造り生え際、おしろいべったりとつけて唇は人食い犬のようで、こうでは口紅もいやらしいものだよ。  お力と呼ばれたのは、中肉の背格好がすらっとして、洗い髪を大きくまとめた新わらの清潔感、首えり元だけのおしろいも目立たない。素からの色白を見てくれとばかりに胸元までゆるゆるにして、たばこに立ち膝の行儀悪さでも誰も注意しないのが良い。思い切りオーバーサイズの浴衣に引っかけた帯は、黒シュス織と何とかのコピー品、緋色の平グケ帯が背中に見えて、言うまでもなくこの辺りの姉様スタイルだよ。  お高というのが、ニッケルシルバーのかんざしに天神返しのまげの下をかきながら、思い出したように「力ちゃんさっきの手紙は出したの」と言う。 「はあ」と気のない返事をして「どうせ来るのじゃないけれど、あれもお愛想さ」と笑っていると、たいがいにしなよ、巻紙3メートルも書いて、切手2枚の大型封筒が、お愛想で出来るものかよ、しかもあの人は赤坂からのお得意様ではないか、ちょっとやそっとのごたごたがあっても縁切れになってたまるものか、お前の出方ひとつでどうでもなるのにちょっとは頑張ってキープするように考え...

にごりえ、二《雨の日》

  二《雨の日》  ある雨の日のうだうだに表を通る山高帽子の三十男、あれだよ捕まえねば、この降りでもお客様の足止めないぞとお力かけだして袖にすがり、どうでも行かせないですと駄々をこねると、美人だから許される。いつもと違うわけありそうなお客様を呼び入れて二階の六畳間に三味線なしでのしみじみしたお話、年を聞かれて名を聞かれてその次は親元の質問、士族かと言うとそれは言えませんと言う、平民かと問えばどうでしょうかと答える、そんなら華族と笑いながら聞くと、まあそう思ってください、華族のお姫様その手でのお酌、かたじけなくお受けなさいと言ってなみなみと注ぐと、そういう無作法な置き注ぎというものがあるのか、それは小笠原か、何流だと言うと、お力流といって菊の井一家の作法、畳に酒を飲ませる流派もあるし、大皿の蓋でふざける流派もある、いやなお方にはお酌をせぬというのが究極の決まりでござんすと言って臆する様子もないので、客はさらに面白がって経歴を話して下さいきっとものすごいお話しがあるに違いない、ただのお嬢育ちとは思えないどうだと言うと、ごらんなさいませまだ耳のあいだに角も生えませんで、そのように甲羅は古くないと言ってコロコロと笑うのを、そんなすかしてはだめだ、本当のところを話して下さい、素性がだめなら目的でもいいと言って詰める。  むつかしゅうござんすね、言ったらあなたびっくりなさるでしょう天下を狙う木下の藤吉とは私のこと、と言ってさらに笑うと、これはどうもならんそんなにネタばかり言わんで少しほんとのところを聞かしてくれ、いかに朝夕を嘘の中で過ごすからといってちょっとは誠意もまじるはず、ご主人はいたか、それとも親のためかと真顔になって聞かれるとお力悲しくなってわたしだって人間でござんすからに少しは心にしみることもありますよ、親は早くになくなって今はほんとにただの手と足だけで、さようこんな者ですが奥さんにしようと言ってくださるもないではないけどいまだ夫は持ちません、どうも下品に育ちました身なのでこんなことして終わるのでござんしょと投げ出したような言葉に無量の感が溢れて、罪な姿の恋多きには似合わない「一筆そうろう」の気配が漂う。  なにも下品に育ったからといって夫を持てないことはないでしょう、特にあなたのような美人さんなんだ、一足飛びに玉の輿にも乗れそうなもの、それともそういった奥様...

にごりえ、三《お力と結城》

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  三《お力と結城》  お客様は「結城朝之助」ゆうきとものすけといって、自分で道楽者とは名乗るが真面目そうなところがちらほらと見えて職業無し妻子無し、遊び盛りの年代なのでこれをはじめに週に二三回は通ってくる。お力もなんとなく気になって思うかして三日見えねば連絡するほどの様子を、同僚の女性達が他人事ながらちょっかい出しては、力ちゃんお楽しみでしょうね、男振りは良いし気前は良いし、今にあの方は出世をなさるに違いない、その時はあなたのことを奥様とでも言うのであろうから、今から少し気を付けて、足を出したり湯飲みであおるのだけはやめときなよ、見た目が悪いよねと言う者があり、源さんが聞いたらどうだろう頭おかしくなるかもしれないと言ってひやかす者もある。ああ馬車に乗ってくるとき都合が悪いから道路の整備からやって欲しいね、こんな側溝のがたつくような店先ではそれこそ見た目が悪くて横付けにもできないではないか、みんなもう少しお行儀をちゃんとしてホールに出られるよう心がけて下さいとずけずけと言うと、ああムカつくわその言い方を少し直さんと奥様らしく聞こえない、結城さんが来たら思い切り言って説教させてみせよう、と言って結城の顔を見るなりこんな事を申しているんですよ、どうしてもわたくしどもの手に負えぬやんちゃなのであなた様から叱ってください、だいいち湯呑みで飲むのは毒でございましょうと告げ口すると、結城は真面目になって「お力酒だけは少し控えろ」との厳命、ああ、あなた様のようでもないお力が無理でも仕事をしていられるのはこれの力と思われないか、酒が私から離れたら座敷は修行房のようになるでしょう、ちょっと察して下さいと言うとなるほどなるほどと言って、結城はそれ以上いわなかった。  ある月の夜に、一階座敷にはどこかの工場の一団、お椀叩いて甚句かっぽれの大騒ぎに大部分の女性は寄り集まって、いつもの二階の小座敷には結城とお力の二人きりだよ。結城は寝転んで楽しそうに話を仕掛けるがお力はうるさそうに生返事をして、何だろう考えている様子だ。どうかしたか、また頭痛でもはじまったかと聞かれて、なに頭痛も何もしませんけれどしきりに持病が起こるのですと言う。 「あなたの持病も癇癪か」 「いいえ」 「なら血の道か」 「いいえ」  それではなんだと聞かれて、どうにも言うことはできませぬ、でも他の人ではなく僕ではない...

にごりえ、 四《妻お初》

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 同じ新開の町はずれに、青果店と理髪店が押し合うような細い路地がある。  雨の降る日は傘も差せない窮屈さに、足元といってもところどころに溝板の落し穴があぶなかしいのを中にして、両側に並べた棟建ての賃貸物件だ。突き当りのゴミ置場脇、六畳一間の上り口は老朽化して、雨戸は常に不用心な建て付け、さすがに片面口ではなくて山の手の仕様なので90センチ程度の縁側がある。その先に草ぼうぼうの空地、その端を少し囲って青じそ、蝦夷菊、インゲン豆の蔓などを竹の荒垣にからませている。お力つながり源七の家だよ。  妻はお初といって28か29にもなるはずだ。貧しさでやつれているから7つは年が上に見えて、おはぐろはまだらで生え放題の眉毛はみるかげもなく、洗いざらした有松浴衣の前と後を切り替えて、膝のあたりは目立たないように小針で継ぎ当ててある。狭帯をきりりと締めて蝉表(せみおもて)インソールの内職だ。盆前からはじめて、暑さの時候を今がその時と大汗をかいての仕事は忙しく、揃えた藤蔓を天井から吊り下げて、少しの手数も省こうというので数をあげるのを楽しみに、脇目も振らぬとこぐっとくる。  もう日が暮れたのに太吉はなぜ帰ってこん、源さんもまたどこを歩いてるんかしらと仕事を片付けて一服吸い付け、苦労人らしく目をぱちぱちさせて、さらに土瓶の下を掘って蚊燻し火鉢に火を取り分けて90センチの縁側に持ち出し、拾い集めた杉の葉をかぶせてふうふうと吹き立てると、フスフスと煙が立ち昇って軒端に逃れる蚊の音がすさまじい。太吉はガタガタと溝板の音をさせて母さん今戻った、お父さんも連れて来たよと門口から呼び立てると、ずいぶん遅いではないかお寺の山にでも行きはしないかとどのくらい案じたろう、早くお入りと言うと太吉を先に立てて源七は元気なくぬっと上がる。  おやお前さんお帰りか、今日はどんなに暑かったでしょう、さだめし帰りが遅かろうと思って行水を沸かしておきました、ざっと汗を流したらどうでござんす、太吉もお風呂に入りなと言うと「あい」と言って帯を解く、お待ちお待ち、いま加減をみてやると言って流し元にたらいを据えて釜の湯を汲み出し、かき回して手ぬぐいを入れて、さあお前さんこの子をも入れてやってくだされ、何をぐたりとしておいでなさる、暑さにでもさわりはしませぬか、そうでなければ一杯浴びて、さっぱりになってご膳あがれ、太吉が待っていま...

にごりえ、五《苦界》

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 誰が「白鬼」と名を付けたのか。無限地獄はなんとなくごまかしておいて、どこにからくりがあるとは分からないが、逆さ落しで血の池だとか、借金で針の山に追い昇らせるのも楽勝だとか聞くと「よっておいでよ」と甘える声も蛇を食う雉だと恐ろしくなるよ。それでも体内10か月と同じことなので、母の乳房にすがった頃は手を打ってうちうちあわわの可愛さで、お札と菓子との二択にはオコシをおくれと手を出してたものなので、今の仕事に誠意はなくても百人の中の一人には心からの涙をこぼして「聞いておくれ染物屋の辰さんの事を」  きのうも川田屋の店でアホのコの六ちゃんとふざけまくって、見たくもない通りにまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた感覚で末が遂げられようか、まあいくつだと思う30はおととし、いいかげんに家でも建てる自覚をしておくれと会うたびに意見をするが、その時限りおうおうと空返事してぜんぜん気にも留めてはくれん、父さんは年をとって、母さんというのは目の悪い人だから心配させないように早く締まってくれればいいが、わたしはこれでもあのひとの半てんを洗濯して、ああいうほころびでも縫ってみようかと思っているのに、あんな浮いた気持ではいつ引き取ってくれるだろう。  考えるとつくづく勤務がいやになってお客様を呼ぶのもやってられない、ああモヤモヤすると、いつもは人でも騙す口で人の辛さに恨みの言葉、頭痛を抑えて思案に暮れる者もいる。  ああ今日はお盆の16日だ、お閻魔様へのお参りに連れ立って通る子供たちがきれいな着物を着てお小遣いをもらってうれしそうな顔をしてゆくのは、きっときっと二人そろって甲斐性のある親を持っているのであろうな。  私の息子の与太郎は、今日の休みにご主人から許可が出て、どこへ行ってどんな事して遊ぼうともやっぱり他人がうらやましかろう。ととさんは呑みばか、いまだに宿すらも決まらないでしょうし、母はこのような身になって恥ずかしい紅おしろい、もし居所が分かったとてあの子は会いに来てもくれまい。  去年向島の花見の時、奥様風にして丸まげに結って同僚と一緒に遊び歩いてたら土手のカフェであの子に会って、これこれと声をかけたが私の若づくりにあきれて「お母さんでござりますか」と驚いた様子。ましてやこの大島田に折節は時候の花かんざし差し閃めかせて、お客様をつかまえて冗談を言うところを聞けば、子供心には悲し...

にごりえ、 六《お力の告白》

  六《お力の告白》 「16日はかならず待ちますよ来てください」そう言ったのも何も忘れて、今まで思い出しもしなかった結城の朝之助にふと出会って、あれと驚いた顔のいつもと違う慌て方がおかしいと、あはははと男が笑うのが少し恥ずかしくて、考えごとをして歩いていたからいきなりみたいにあわててしまいました、よく今夜は来てくださいましたと言うと、あれほど約束して待ってくれないのはひどいじゃないかと責められるが、何とでもおっしゃって、言い訳は後にしますと手を取って引いて野次馬がうるさいと注意する。どうでも勝手に言わせましょうこっちはこっち、と人をかき分けて同行した。  下座敷はまだ団体客の騒ぎが止まず、お力が外したのに機嫌を損ねてやかましかったところに、入口でおやお帰りかの声を聞くなり客を置き去りにして外すというやり方があるか、帰ったならここに来い、顔を見ないと承知しないと威張り立てるのを聞き流して二階の座敷に結城を連れ上げて、今晩も頭痛がするのでお酒の相手はできません、大勢の中にいれば香りに酔って夢中になるかもしれませんから、少し休んでその後は分からない、ごめんなさいませと断りを言っておくと、それでいいのか、怒るんじゃないか、うるさくなると面倒だろうと結城が心配すると、なんの雇われの白うりがどんな事をしましょうか、怒るなら怒れでござんすと言って若い子に頼んでお銚子の準備、来るのを待ちかねて「結城さん」今夜は私に少し面白くない事があって気持が変になっていますからそのつもりでお付き合いください、お酒を思い切って飲みますから酔ったら介抱してくださいと言うと、君が酔ったのをまだ見たことがない、気が晴れるくらいに飲むのは良いが、また頭痛が始まるんじゃないか、何がそんなに逆鱗にふれた事がある、僕なんかに言っては悪いことではと聞かれるが、いえあなたには聞いていただきたいのでござんす、酔うと申しますから驚いてはいけませんとにっこりして、大湯呑みを取り寄せて二三杯は息もつかなかった。  いつもはそうまで心にも留まらなかった結城の風采が今夜は何となく尋常でなく思われて、肩幅があって背がいかにも高いところから、落ち着いてものを言う重みのある口振り、目つきがすごくて人を射るようなのも威厳が備わっているなとうれしくて、濃い髪の毛を短く刈り上げて顎あしがくっきりしているとか今さらのように眺められ、...

にごりえ、七《お初の決断》

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  七《お初の決断》  思い出したところで今さら何になるものか、忘れてしまえ諦めてしまえと思案は決めながら、去年の盆には揃いの浴衣をつくって二人一緒に蔵前へ参詣したことなどが思うことなく胸に浮かんで、盆に入っては仕事に出るやる気もなく、お前さんそれではならぬぞえと諫め立てる妻の言葉も耳うるさく、ええ何も言うな黙っていろと言って横になる。  だまっていてはその日が過ごされません、身体が悪ければ薬を飲むも良し、お医者にかかるのも仕方がないけど、お前の病気はそれでなくて気持ちさえ持ち直せばどこに悪い所があるの、少しは正気になってがんばってくださいと言う。いつも同じことでは耳にたこができて気の薬にはならん、酒でも買ってきてくれ気晴らしに飲んでみようと言う。  お前さんそのお酒が買える位なら嫌だとお言いになるのを無理に仕事に出てくださいとは頼みません、わたしの内職だって朝から夜までやって5,000円がやっとで、親子三人の口があってお粥の薄いのも満足には飲めないなかで酒を買えとはお前よくよく無茶夫になりなさんした、お盆だというのに昨日でも小僧には白玉ひとつ作って食べさせもせず、お精霊様のお店飾りも作ってないからお燈明ひとつでご先祖様にお詫びを申しているのも誰のお仕事と思いなさる、お前があほうを究めてお力づらめに釣られたから起こったこと、言っては悪いがお前は親不孝子不孝、少しはあの子の将来も考えて真人間になってください、お酒を飲んで気を晴らすのはいっときだけ、しんから改心して下さらないと不安に思えるのです。  妻がこう嘆いても返事はなくて、溜め息が時々太く身動きもせず仰向いている、その辛さ。こんなになってもお力が忘れられないのか、10年連れ添って子供まで授かった私にメンタル限界までの負担を強いて、子にはぼろを着せて家などは六畳一間のこんな犬小屋で、世間一般から見下されて圏外にされ、たとえ春秋の彼岸になったって隣近所に牡丹餅団子と配り歩く中で源七の家にはやらんほうが、返礼が気の毒でって、親切かは知らないけど10部屋物件の1部屋がのけ者、男性は外に出がちだからそんなに気にもならないでしょうけど女心にはやるかたないくらい切なく悲しく、しぜんに肩身が狭くなり朝夕の挨拶でも人の顔色を見るような情けない気持ちもするのに、それすら考えずにビジネス嬢のことばかりを考え続け、心を持たずその...

にごりえ、八《エピローグ》

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  八《エピローグ》  精霊祭が終わって数日、まだ盆提灯の影のどこか寂しい頃、新開地を出た棺が二つある。一つは籠で、一つは二人担ぎで、籠は菊の井の別棟からひそひそと出た。大通りで見る人がささやく。  あの娘もまったく運が悪い、詰まらん奴に見込まれてかわいそうなことをした、と言う。  いや、あれは納得していたと言いますよ、あの日の夕暮れに二人が立ち話をしていたという確かな証人もございます、女ものぼせていた男のことだから義理にせまってやったのでしょうと言う者もいる。  そんな、あのあまが義理立てを知るかよ、銭湯の帰りに男に会ったから、さすがに振り切って逃げることもできず、一緒に歩いて話はしてもいたろうけど、斬られたのは後ろから、頬先のかすり傷、首筋の突き傷とか色々あるけど、確かに逃げるところをやられたのに違いない、反対に男は見事な切腹、布団屋の頃からそれほどの男とは思わなかったがあれこそは死に華、立派に見えたと言う。  何にしても菊の井は大損害だろう、あの娘には良いパトロンがついたはずで、とり逃がしては残念だろうと他人の悲哀を冗談に思う者もいる。  諸説が乱れてとりとめのないことだが、気持はのこる。人魂か何かはわからない筋を引く光る物が、お寺の山という小高い場所から、時おり飛んでいるのを見た者がいたそうである。 (にごりえ、完)