にごりえ、二《雨の日》
二《雨の日》
ある雨の日のうだうだに表を通る山高帽子の三十男、あれだよ捕まえねば、この降りでもお客様の足止めないぞとお力かけだして袖にすがり、どうでも行かせないですと駄々をこねると、美人だから許される。いつもと違うわけありそうなお客様を呼び入れて二階の六畳間に三味線なしでのしみじみしたお話、年を聞かれて名を聞かれてその次は親元の質問、士族かと言うとそれは言えませんと言う、平民かと問えばどうでしょうかと答える、そんなら華族と笑いながら聞くと、まあそう思ってください、華族のお姫様その手でのお酌、かたじけなくお受けなさいと言ってなみなみと注ぐと、そういう無作法な置き注ぎというものがあるのか、それは小笠原か、何流だと言うと、お力流といって菊の井一家の作法、畳に酒を飲ませる流派もあるし、大皿の蓋でふざける流派もある、いやなお方にはお酌をせぬというのが究極の決まりでござんすと言って臆する様子もないので、客はさらに面白がって経歴を話して下さいきっとものすごいお話しがあるに違いない、ただのお嬢育ちとは思えないどうだと言うと、ごらんなさいませまだ耳のあいだに角も生えませんで、そのように甲羅は古くないと言ってコロコロと笑うのを、そんなすかしてはだめだ、本当のところを話して下さい、素性がだめなら目的でもいいと言って詰める。
むつかしゅうござんすね、言ったらあなたびっくりなさるでしょう天下を狙う木下の藤吉とは私のこと、と言ってさらに笑うと、これはどうもならんそんなにネタばかり言わんで少しほんとのところを聞かしてくれ、いかに朝夕を嘘の中で過ごすからといってちょっとは誠意もまじるはず、ご主人はいたか、それとも親のためかと真顔になって聞かれるとお力悲しくなってわたしだって人間でござんすからに少しは心にしみることもありますよ、親は早くになくなって今はほんとにただの手と足だけで、さようこんな者ですが奥さんにしようと言ってくださるもないではないけどいまだ夫は持ちません、どうも下品に育ちました身なのでこんなことして終わるのでござんしょと投げ出したような言葉に無量の感が溢れて、罪な姿の恋多きには似合わない「一筆そうろう」の気配が漂う。
なにも下品に育ったからといって夫を持てないことはないでしょう、特にあなたのような美人さんなんだ、一足飛びに玉の輿にも乗れそうなもの、それともそういった奥様扱いは性に合わずやはりガテン系の布ベルト氏が好きなのかなと聞くと、どうせそこらが落ちでござりましょ、こちらで思うときには先方様が嫌やで、来いと言ってくださるお方で気に入るもない、浮気なようにお思いでしょうがその日暮らしでござんすと言う。
いやそうは言わさん相手のないことはありえん、いま店先で誰それがよろしく言ったと他の女性が伝言したではないか、きっと楽しいことがあるだろう誰とだと言うと、あああなたもえらく詮索なさります、馴染みはうわべだけ、手紙のやりとりは書き損じの取り替えっこ、書けとおっしゃれば念書でも誓紙でもお好みしだい差し上げましょう、夫婦約束などといってもこっちで破るよりは先方様の根性無し、上司持ちなら上司が怖く親持ちなら親の言いなり、振り向いて見てくれないならこちらも追いかけて袖をとらえるに及ばず、それならよせとでそれ限りになりますよ、相手はいくらもあっても一生を頼む人がないのでありますと寄る辺ない感じでいる。
「もうこんな話はやめにして楽しく遊んでくださいよ、わたしはなんか沈んだことは大嫌い、騒いで騒いで騒ぎまくれと思います」と手を叩いて同僚を呼ぶと「力ちゃんだいぶおしっとりだね」と三十代の美魔女が来る。
「おいこの人が好きな人は何という名前」といきなり唐突に聞かれて「はあ私はまだお名前をうけたまわりませんでした」と言う。
「嘘を言うとお盆になっても閻魔様にお参りができないよ」と笑うと「そうはいってもあなたさま今日お目にかかったばかりではございませんか。今あらためてうかがいに出ようとしていました」と言う。
「それは何のことだ」
「あなたのお名前をさ」
とアゲられて、やめろよお力が怒るよと盛り上がる。無駄話のやりとりのノリで「社長のお仕事をあててみせましょうか」とお高が言う。なにとぞお願いしますと手のひらを差し出すと「いえそれは大丈夫です人相で観ますよ」とやけに落ちついている表情だ。
「よせよせじっと眺められて棚卸しでも始まってはたまらん、こう見えても僕は公務員です」と言う。
「嘘をおっしゃい、日曜以外で遊んで歩く公務員様がありますか。力ちゃんまあ何でいらっしゃろう」と言う。
「化け物ではいらっしゃらないよ」と鼻の先で言って「わかった人にはごほうびだ」と胸元から財布を差し出すと、お力笑いながら高ちゃん失礼を言ってはいけない。
「このお方はご大身のご華族様お忍び歩きのご遊興よ。どんなご商売などがおありなさろう、そんなのではない」
と言いながら座布団の上に乗せておいた財布を取り上げて、お相手の高尾太夫にこれはお預けなさいませ、全員にボーナスでも支給しましょうと言って答えも聞かずにずんずんと引き出すのを、ゲストは柱に寄りかかって文句も言わず「全てお任せします」と寛容な人だ。
お高はあ然として力ちゃん大概にしなよと言うが「何いいのよ」これはあなたにこれはねえさんに、大きいのでレジの会計を済ませて残りはスタッフ全員にあげてもいいとおっしゃる、お礼を申し上げて頂きなさいよとばらまいてゆくと、これはこの娘の得意技だと慣れていることなのでそこまで遠慮も言ってはおらず「旦那よろしいのでございますか」と一応は言って「ありがとうございます」と持ち帰ってゆく後ろ姿「十九にしては老獪な」と旦那殿が笑い出すと、人の悪いことをおっしゃると言ってお力は立って障子を開け、手すりに寄って頭痛を叩くと「あなたはどうする、お金は欲しくないのか」と聞かれて、私は別に欲しいものがありました、これさえ頂ければ何よりと帯の間からゲストの名刺を取り出して頂く真似をすると、いつのまに取り出した、その代わりに写真をくれとねだる。この次の土曜日に来てくださればご一緒に写しましょうと言って帰りかけた男をそうは止めもせず、後ろに回って上着を着せながら「本日は失礼をいたしました。またのお越しをお待ちいたします」と言う。おい都合の良いことを言わないように、うそ念書は困ると笑いながらさっと立って階段を下りると、お力は帽子を手にして後ろから追いすがり、うそかまことか九十九夜の辛抱をなさいませ、菊の井のお力は鋳型に入った女ではありません、またかたちが変わることもありますると言う。
「旦那お帰り」と聞いて同僚の女性、レジの女性店長も駆け出して「ありがとうございました」と揃っての感謝。頼んでおいた車が来たというのでそこから乗り込むと、全員で表に送り出してまたお待ちしておりますの笑顔。ボーナスの御威光あきらかで後には力ちゃん大明神様、これにもありがとうの感謝増量であった。
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