にごりえ、 四《妻お初》

 同じ新開の町はずれに、青果店と理髪店が押し合うような細い路地がある。

 雨の降る日は傘も差せない窮屈さに、足元といってもところどころに溝板の落し穴があぶなかしいのを中にして、両側に並べた棟建ての賃貸物件だ。突き当りのゴミ置場脇、六畳一間の上り口は老朽化して、雨戸は常に不用心な建て付け、さすがに片面口ではなくて山の手の仕様なので90センチ程度の縁側がある。その先に草ぼうぼうの空地、その端を少し囲って青じそ、蝦夷菊、インゲン豆の蔓などを竹の荒垣にからませている。お力つながり源七の家だよ。



 妻はお初といって28か29にもなるはずだ。貧しさでやつれているから7つは年が上に見えて、おはぐろはまだらで生え放題の眉毛はみるかげもなく、洗いざらした有松浴衣の前と後を切り替えて、膝のあたりは目立たないように小針で継ぎ当ててある。狭帯をきりりと締めて蝉表(せみおもて)インソールの内職だ。盆前からはじめて、暑さの時候を今がその時と大汗をかいての仕事は忙しく、揃えた藤蔓を天井から吊り下げて、少しの手数も省こうというので数をあげるのを楽しみに、脇目も振らぬとこぐっとくる。

 もう日が暮れたのに太吉はなぜ帰ってこん、源さんもまたどこを歩いてるんかしらと仕事を片付けて一服吸い付け、苦労人らしく目をぱちぱちさせて、さらに土瓶の下を掘って蚊燻し火鉢に火を取り分けて90センチの縁側に持ち出し、拾い集めた杉の葉をかぶせてふうふうと吹き立てると、フスフスと煙が立ち昇って軒端に逃れる蚊の音がすさまじい。太吉はガタガタと溝板の音をさせて母さん今戻った、お父さんも連れて来たよと門口から呼び立てると、ずいぶん遅いではないかお寺の山にでも行きはしないかとどのくらい案じたろう、早くお入りと言うと太吉を先に立てて源七は元気なくぬっと上がる。

 おやお前さんお帰りか、今日はどんなに暑かったでしょう、さだめし帰りが遅かろうと思って行水を沸かしておきました、ざっと汗を流したらどうでござんす、太吉もお風呂に入りなと言うと「あい」と言って帯を解く、お待ちお待ち、いま加減をみてやると言って流し元にたらいを据えて釜の湯を汲み出し、かき回して手ぬぐいを入れて、さあお前さんこの子をも入れてやってくだされ、何をぐたりとしておいでなさる、暑さにでもさわりはしませぬか、そうでなければ一杯浴びて、さっぱりになってご膳あがれ、太吉が待っていますからと言うのでおおそうだと思い出したように帯を解いて流しへ下りると、何となく昔の我が身が思われて六畳一間の台所で行水つかうとは夢にも思わぬもの、ましてや建築系の派遣をして車の後押しにと。

 親は生つけても下さるまい、ああ詰まらん夢を見たばかりにと、じっと身にしみて湯もつかわない。父ちゃん背中を洗っておくれと太吉は無心に催促する。お前さん蚊が食いますからさっさとおあがりなされと妻も気を遣うので、おいおいと返事をしながら太吉にもつかわせ自分も浴びて、上にあがれば洗いざらしたさばさばの浴衣を出して、お着替えなさいましと言う、帯巻き付けて風の透くところにゆくと、妻は秋田能代の膳の剥げかかって足はよろめく古物に、お前の好きな冷ややっこにしましたと言って小丼に豆腐を浮かせて青じその香り高く持ち出すと、太吉はいつの間にか台から飯櫃を取り下ろしてよっちょいよっちょいと担ぎ出す。

 坊主はおれのそばに来いと言って頭をなでつつ箸を取るが、心は何を思うのでもないが舌の感覚がなくて喉の穴がはれているようで、もうやめにすると言って茶碗を置くと、そんなことがありますか、力仕事をする人が三度のごはんを食べられないという事はない、気分でも悪うござんすか、それとも酷く疲れてかと聞く。いやどこも何ともないようだけど、ただ食べる気にならないと言うと、妻は悲しそうな目をして「お前さんまた例のがおこりましたろう」

 それは菊の井の鉢肴は美味しくもありましたろうけれど、今の身分で思い出したところで何となりまする、先方は売り物買い物お金さえできたら昔のように歓迎してもくれましょう、表を通ってみても分かる、おしろいつけて良い着物着て迷って来る人を誰彼なしに丸めるのがあの人たちのビジネス、ああ俺が貧しくなったから構ってくれんわと思えば何の事なく済むでしょう、恨みに思うところはお前さんの未練でござんす。


 裏町の酒屋の若い者、知っておいでなさろう。

 二葉屋のお角に心から入れ込んで、取引先を残らず使い込み、その補填だとかで反社系カミナリ虎サロンの隅に座って人生詰んだ。だんだん悪事が日常になって最後は倉庫泥棒までしたそうな。いま男は刑務所入りしてそんなごはんも食べているでしょうが相手のお角は平気なもので、面白おかしく世を渡るのを咎める人もなくキラキラみたいにしていますよ。あれを思うにそれはビジネスパーソンの業績、だまされたのはこちらの失敗、考えても始まることではござんせぬ。それよりは気を取り直してお仕事に精を出して少しの元手もこしらえるようにこころがけてくだされ。お前に弱られてはわたしもこの子もどうすることもならず、それこそ路頭に迷わねばなりません。男らしく思い切る時です、あきらめてお金さえできたのならオリキはおろかコムラサキでもアゲマキでも別宅こしらえて囲ったら良うござりましょう、もうそんな考えごとはやめにして機嫌良くご膳あがってくだされ、坊主までが陰気らしく沈んでしまいました、そう言った。


 見ると茶碗と箸をそこに置いて父と母の顔を見比べては何とは分からず気になる様子だ。こんな可愛い者さえあるのにあんな狸が忘れられんて何の因果かと胸の中かき回されるようになり、われながら未練者めと𠮟り付けて、いや俺だっていつまでも馬鹿じゃいない、お力などと名前さえも言ってくれるな、言われると以前の不出来のを考え出してますます顔が上げられん、なんのこの身になっていまさら何を思うものか、飯が食えぬといってもそれは体の加減であろう、何も格別案じてくれるには及ばんから小僧も十分にやってくれと言って、ころりと横になって胸のあたりをハタハタとうち仰ぐ、蚊取りの煙にむせぶかな、でも思いに燃えて身は熱いんだな。

コメント

このブログの人気の投稿

ゆく雲(全編)

闇桜(全編)

十三夜、目次その他