にごりえ、一《ナンバーワン嬢お力》

「あとでもないもんだ来る気もないくせに、本当に妻帯者になっては仕方がないね」
と店に向かって敷居をまたぎながらひとりごとを言った。
「タカちゃん、かなりぶっちゃけですね。何もそんなに案じるにも及ばない、焼けぼっくいとなんとかで、またよりが戻ることもあるよ。心配しないで、お祈りでもして待てばいいよ」
となぐさめるような仲間の言い方に、リキちゃんと違ってわたしにはスキルがないからね、一人でも逃しては残念よ、私のような運の悪い者にはお祈りも何も効きはしない、今夜もまた受付か、なんたらことだ、面白くもない、と癇癪まぎれに店先に腰をかけて、駒下駄のヒールでとんとんと土間を蹴るのは、二十を過ぎて七つか十か、引き眉毛に造り生え際、おしろいべったりとつけて唇は人食い犬のようで、こうでは口紅もいやらしいものだよ。
お力と呼ばれたのは、中肉の背格好がすらっとして、洗い髪を大きくまとめた新わらの清潔感、首えり元だけのおしろいも目立たない。素からの色白を見てくれとばかりに胸元までゆるゆるにして、たばこに立ち膝の行儀悪さでも誰も注意しないのが良い。思い切りオーバーサイズの浴衣に引っかけた帯は、黒シュス織と何とかのコピー品、緋色の平グケ帯が背中に見えて、言うまでもなくこの辺りの姉様スタイルだよ。
お高というのが、ニッケルシルバーのかんざしに天神返しのまげの下をかきながら、思い出したように「力ちゃんさっきの手紙は出したの」と言う。
「はあ」と気のない返事をして「どうせ来るのじゃないけれど、あれもお愛想さ」と笑っていると、たいがいにしなよ、巻紙3メートルも書いて、切手2枚の大型封筒が、お愛想で出来るものかよ、しかもあの人は赤坂からのお得意様ではないか、ちょっとやそっとのごたごたがあっても縁切れになってたまるものか、お前の出方ひとつでどうでもなるのにちょっとは頑張ってキープするように考えたらいいじゃん、あんまりコスパがよくないでしょと言うとご親切にありがとう、ご意見はうけたまわりまして、わたしはどうもあんなやつは虫が好かないから、無い縁とあきらめて下さい、と他人事のように言う。
「あきれたものだな」と笑ってお前様などはそのわがままが通るからすごいよね、この身になっては仕方がないとうちわを取って足元をあおぎながら、むかしは花よと笑っておいて、表を通る男に目をかける。
「寄っていって」と夕暮れの店先は、はなやかだった。
店は入口3.5m幅の二階建だ。ファサードにはご神燈提灯をかかげ盛塩が運気を上げる、銘酒をやたら棚の上に並べてレジのような所も見え、裏の通用口には炭火をあおる音が時々さわがしく、女性店長が自分で寄せ鍋や茶碗蒸しくらいするのはふつうだ。表に掲げた看板を見るとそれっぽくおばんざいとか書いている、でも仕出しを頼みに行くんなら何と言うんだ、いきなり完売も不審なはず、女性でないお客様はわたくしどもの店にお出向きをお願い致しますとも言えないじゃないか、世の中方便かビジネスを理解して、突き出し焼き物と頼みに来る初心者もいなかった。
お力というのはこの店のナンバーワンだ。年は一番若いが集客がやたら上手で、それほどに愛想のサービスをするのでもなくやりたいようなだけの行動、ちょっとビジュアルに自信がと思ってあいつ嫌いと陰口言う同僚もあったけど、遊んでみると案外と優しいところがあって女性だけども離れとうない気持がする。ああ心とは仕方のないもの、面差しがどことなく冴えて見えるのはその人の本性があらわれるのであろう、誰でもこの新開地に入る者なら菊の井のお力を知らないのはないだろ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、これは昨今の稀少な拾いもの、あの人のおかげで新開は輝いた、雇用者は神棚に捧げておいても良いと、通り沿いの羨望ネタになった。
お高は外に人がいないのを見て「リキちゃん」
あなたのことだから何があったといって気にもしていないでしょうけど、私は自分のこともあって源さんのことが気になるの、それは今の身分に落ちぶれては本来いいお客様ではないけれども思い合ったのなら仕方がない、年が違おうがお子さんがあろうが、ねえそうじゃない、奥さんがいるといって別れられるものかな、かまうことはない呼び出してあげて、私のなんかいったらあいつが完全に心変わりして顔を見ただけで逃げ出すのだから仕方がない、どうせ脈無しなので別口にかかるけどあなたのはそれと違う。
考え一つでは今の奥さんに離婚届でも渡せるのだけれど、あなたはプライドが高いから源さんと一緒になろうとは思わない、それなんだよだからこそ呼ぶのに事情があるものか、手紙を書きなよ今に三河屋の営業さんが来るだろうからその若い人にお使いをしてもらえばいい、だいじょうぶだよどこかのお嬢様じゃないんだし、あなたは思い切りが良すぎるからだめだよ、いいから手紙をやってごらん源さんもかわいそうだよと言いながらお力を見ると、たばこメンテに集中なのかうつむいたままものも言わん。
やがて吸い口をきれいに拭いて一回吸ってぽんと叩き、また吸いつけてお高に渡しながらやめてくださいよ店頭で言われると人聞きが悪いじゃないですか、菊の井のお力は建築の方と深いなどと誤解をされてもよくない、それはむかしの思い出だ、どうも今は忘れて源とも七とも思い出さない、もうその話はやめやめと言いながら立ち上がる時に表を通る派手なベルトの一群、あら石川さん村岡さんお力の店をお忘れになりましたかと呼ぶと、いや相変わらずナンバーワンのお声がけ、素通りもできないなとずっと入る、たちまち廊下にバタバタという足音、お嬢さんボトルをと声をかけるとおつまみは何をと答え、音楽がけたたましく響いて、踊る足音ここから聞こえはじめたのだ。
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