わかれ道、下《わかれみち》
下

十二月三十日の夜、吉三は坂の上の取引先に納品の期限の遅れをお詫びに行って、帰りは急ぎ足だ。手はふところに入れて、履物の先にさわるものを蹴って遊んで、コロコロと転がるのを左右に追いかけて大きな溝の中に蹴落として一人でかかかと笑うのを聞く者はなくて、空のお月さまも煌々と照らしなさる。寒いということを知らないからただ心地よくて爽やかで「帰りはいつもの窓を叩こう」
そう思って横町を曲がると、急に後ろから追いかける人が両手で目を隠してふふっと笑う。誰だ誰だと指をなでて、なんだ京子さんか、小指の蛇がものを言う、おどかしてもだめだよと顔で振り払った。
「憎らしいわね、当てられてしまった」
京子が笑った。
頭巾で顔を覆って柔らかい二重織りの羽織を着ている。目だけを出しているがいつもの彼女ではなかった。京子は、美しく化粧をしていた。
吉三は下から見上げ、そして見下ろして「あなたどこへ行かれたんですか」
今日と明日はいそがしくてごはんを食べる時間もなさそうと言ってたじゃないですか、どこの営業だったのと疑いをかけられて、前倒しのお年始よと言ってとぼけていると、嘘を言ってるよ三十日に年始を受ける家はないでしょ、親戚にでも行かれたんですかと聞くと「とんでもない親戚に行くような身分になったの」
わたしは明日あの裏を引っ越すの、あまり突然だからきっとあんた驚くわよね、わたしも急だからまだ本当なのかと思う、とにかく喜んでよ悪い事ではないからと。
本当か、本当か、と吉は呆然として、嘘じゃないのか冗談じゃないのか、そんな事を言って驚かしてくれなくてもいい、俺はあなたがいなくなったら何も楽しい事がなくなってしまうんだから、そんな嫌な冗談はやめてください、ああつまらない事を言う人だと頭を振ると、嘘じゃないよいつかあんたが言ったとおりにすごい強運が馬車に乗って迎えに来たという事態なのであの裏のところにはいられない「きっちゃん」
「そのうちに手織り一式を作るから」そう言った。
いやだ、俺はそんなものを貰いたくはない、京子さんその運というのはつまらんところへ行こうというのではないのか、おとというちのハンジサンがそう言ってたよ、キャリアのお京さんは八百屋の横丁でマッサージをしているおじさんの仲介で、どこだかのお宅に出向されるらしいんだ、いや新入り雑用という年齢ではないから、社長夫人のお付きとか服飾とかのわけはない、三つ輪の叶え結びで房のさがった七五三のような袖なしの上着を着る愛人秘書様で間違いない、なんであの美人が職人女子を貫けるものかよ、世間が許さないとこう言っていた、俺はそんなことはないと思うので間違いだろうと言って大げんかしたけれど、あなたまさかそこに行くんじゃないの、そのお宅に行くんでしょう、と聞かれて何もわたしだって行きたいわけじゃないけど行かないといけないんだ、キッちゃんあなたにももう会えなくなるねと、ただそう言っているだけだがどこかヘコんで聞こえるのだ「どんなキャリアアップになるのか知らないけれど、そこにゆくのはやめたほうがいいです」
そんな、あなたの一人住まいが服飾で続かないわけがない、これだけの仕事ができてどうしてそんなつまらないことを始めたんだ、しょうもなさ過ぎるじゃないかと吉三は自分が案外真面目であったとここで自覚して、止めなよ、止めなよ、断りなよと言うと「困ったね」と京は立ち止まりそれでも吉ちゃん、私は洗い張りに飽きてしまった、もうおめかけでも何でもいい、どうでもこんなに詰まらないことばかりだから、むしろそんな腐れ縮緬衣装で日々を過ごそうと思うの。
思い切ったことを我知らず言って「あはは」と笑ったが、とにかくさ家に行こうよ、吉ちゃん少し急いでと言われて、何か俺は基本的に良いとは思えない、まあ先に行ってよと後について、地面に長く伸びた自分の影を心細そうに踏んでゆく。いつしか傘屋の路地を入っていつものお京の窓下に立つ。ここを毎晩訪ねてくれたけれど、明日の夜にはもうあなたの声も聞かれない、世の中っていやなものだねと溜め息をつくと、それはあなたがそう思うだけだと吉三は不満そうに言った。
京子は部屋に入るとランプに火を移し、火鉢を掻き起こし、吉ちゃんあたってよと声をかけたが俺はいやだと言って柱に寄って立っている、でもあなた寒いじゃないですか風邪をひいたらだめよと注意すると、ひいてもいい、構わないでいてくださいと下を向いている。あなたどうしたの、何か変な感じだね、私の言うことが何か癇にでもさわったの、それならそのように言ってくれたほうがいい、黙ってそんな顔をしていられると気になって仕方がないと言うと、寄りかかった柱に背中を当てながら、ああつまらない面白くない、俺は本当に、何て言うんだろう、いろいろな人が良くしてくれるのに直ぐにつまらない事になってしまうんだ、傘屋の先代のお松さんも良い人だったし、紺屋のお絹さんという縮れ毛の人も可愛がってくれたけれど、お松さんは痛風で亡くなるし、お絹さんは結婚話を嫌がって裏の井戸に飛び込んでしまった、あなたは冷たくて俺を捨ててゆくし、もう何もかもつまらない、何だ傘屋の油引きなんか、百人分の仕事をしたからといって賞与の一つも出るのじゃないし朝から晩まで一寸法師の言われ通しでそれだからって一生かかってもこの身長が伸びるのか、待てば海路とか言うけど俺なんかは毎日毎日嫌な事ばかり起こってきやがる、おととい半次の野郎と大げんかをやって、お京さんだけは他人の愛人になるようなダメな人ではないと偉そうに言ったのに、五日と経たずにギブアップしないといけないじゃないか、そんな噓つきの、ごまかしの、欲の深いあんたを姉同様に思っていたのがくやしい、もう京子さんには会わない、どうしてもあなたには会わない、長らくお世話になりましたこちらから感謝いたします、こんちくしょうもう誰の事も当てにするか、さようなら、と言って立ち上がり玄関の履物を足に掛けるのを、ああ吉ちゃんそれはあなた勘違いだ、なにも私がここを離れるといってあなたを見捨てはしない、わたしは本当に兄弟だとそれだけを思っているのにそんな愛想尽かしはひどいじゃない、と後ろから両腕を回し抱き締めて「気の早い子だね」と京子が言って聞かせると、そんならおめかけに行くのを止めてくれますかと振り返られて、誰も望んで行くところではないけれど、わたしはどうしても行こうと決心している、だからそれは折角だけれど聞けないわよと言うと吉は涙の目で見つめて、京子さんお願いします、お願いですからこの手を放してほしい。
(わかれ道、完)
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