われから(1/13)若妻、夫にモヤモヤする

(一)


霜の降る夜が更けてゆく。吹く、というほどでもない風が、横の開き戸の隙間から入って枕元に届く。障子がかさこそと紙の音を立ててものがなしく、寂莫としている。旦那様は留守だ。

 寝室の時計が十二の音を打つまで、妻はどうしても眠ることができず、寝返りを繰り返すうちに少しイライラしてくる。

 どうでもいい現実の諸事情から、旦那様が去年の今頃には「コウヨウカン」に通い詰め入り浸るようになり、ご自身は隠しなさったけれども、外出着のお袂から縫い取り縁のハンカチを発見した時の憎さ。

 ガチガチに詰めて詰めて、詰め抜いてもう今後は絶対に行きません、同室のサワキの発言のイとエを取り違えることはあってもこの約束は絶対に守ります、かんべんしてくださいと謝罪しなさっていた時の気分の爽快さ。ここ数か月のイガイガが落ちて、胸のすくほど嬉しく思いましたのに、またかよ最近折々のお泊りである。水曜会とかいうのの方々や、なんとかクラブのお仲間にやんちゃなお方が多いからそこに引っ張られて自然に身持ちが悪くおなりになった「朱に交われば」ということをお花の師匠様が口癖にしておられたけれど本当にあれは嘘ではないことだ、昔はあんなふうな口先の人ではなく、今日はどこそこで芸者を呼んで、こういう不思議な踊りを見てきたとか、おなかが痛くなるような面白いことをもう真面目な顔でおっしゃったものだけれど、今日この頃の性格のたちの悪さはなんだ。憎たらしいくらいにお利口さんなことばかりお言いあそばして、わたしのような世間知らずを手の平の上で丸め込んで、全くもってつかまえようのないお方だ、ああ今晩はどこにご宿泊で、明日はどういう嘘を言ってお帰りになるのか。夕方にクラブに電話をかけたら三時頃にお帰りとのこと、また吉原の式部嬢のところじゃないか、あれだって縁切りとかおっしゃってからはや五年、旦那様だけが悪いのではなくて、季節のお届け物など、ニクイ配慮を見せるからお気持ちがつい浮かれておのずから足も向こうというものだ、全くビジネス嬢とはムカつくものだとだんだんと考えごとが増えてくるといよいよ寝られんで、妻は後ろ前に掛けていたちりめん生地のカイマキをはねのけて、山梨産郡内織の布団の上に起き上がった。


 八畳の座敷に、屏風が六枚立っている。枕の先には桐製胴の火鉢と煎茶の道具がある。煙草盆はローズウッドで、キセルは接続部のラオ管が朱色だ。凝った仕様である。枕カバーの派手な絵柄から枕の紅色の房まで、普段からの趣味が大幅に反映されて、部屋は絢爛に溺れている。照明台の灯りは微かだ。

 妻は、火鉢を引き寄せた。火の気はあるだろうか。夜に入ってから庶務担当の女性が埋めて持ってきてくれた桜炭の、半ばは灰になって、おこし切らず埋めておいて黒いまま、冷えているものもあった。キセルを取り上げて、一つ二つと煙を吹いて耳を立てた。今この部屋の軒はしに乗り移って開き戸の上を歩いてゆく、猫の声がする「あれはタマじゃないのか」

 ああこの霜の夜に屋根をつたって、いつかみたいに風邪をひいて苦しそうな喉をするのだろう、あれもやっぱりいたずら者だとキセルを置いて立ち上がった。女猫を呼ぼうと小さなぼんぼり提灯に火を移して、普段着にしている八丈染めの羽織をしどけなく肩にかけた。丈長のそれは学生達が使いはじめて流行っていた。ちりめんの腰紐はエメラルドのようなあさぎ色で、特別に美しく見えた。

 踏めば冷たい板の間に裾を長く引いて、回り縁の端の小窓から顔をさし出してタマよ、タマよ、とふた声くらい呼んで、恋に狂って飢え渇く身は主人の声も聞き分けぬ。身に滲みるような濡れたような声で大屋根のほうへと鳴いてゆく。もう、言うことをきかないわがままものめ、どうでもしなさいと捨て台詞を言って思うともなく庭を見ると、漆黒の闇におおわれて白も黒も見分けられない中、山茶花の咲く垣根を洩れて学生部屋の戸の隙間から僅かに光が仄めくのは「お、千葉はまだ寝てないな」

 小窓を閉ざして寝室に戻ると、もう一度立って菓子棚からビスケットの瓶を取り出して、清潔な紙に置いて紙をひねり、ぼんぼりを片手に縁側に出た。天井の鼠が「がたがた」と暴れて、イタチでも入ったのかキキッという声が鋭い。前を照らす燈火の影が揺れて、廊下の暗闇は住み慣れた家のことで恐ろしくも何ともなく、秘書も派遣さんも夢のただなかに、奥様は学生の部屋へとお入りになられた「お前はまだ寝ないのかい」

 障子の外からそう声をかけて妻がすっと入ってゆくと、室内の男は読書中の脳内を覚まされて、思いがけないような呆然とした表情が面白くて、奥様は笑って立っていた。



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