たけくらべ(七〜九)真如と美登里、過去と未来
七 龍華寺の信如、大黒屋の美登利、二人とも学校は育英舎だ。去る四月の終わり、桜は散って青葉の蔭に藤の花見という頃に、春季の大運動会ということで水の谷の原で催しがあって、綱引き鞠投げ縄跳びの遊びに興を添えて長い一日が暮れるのを忘れていた。 その時の事だった。信如はどうしたものか平常の沈着ではなく、池のほとりの松の根につまずいて赤土の道に手を着いた。垂れ下がった羽織の袖も泥になって見苦しいところを居合わせた美登利が見かねて我が紅の絹ハンカチを取り出し、これでお拭きなさいと介抱をしたところ、友達のなかにいた嫉妬屋が見つけた。藤本は坊主のくせに女と話をして嬉しそうに礼を言ったのは可笑しいではないか、おおかた美登利さんは藤本の女房になるのであろう、お寺の女房だから大黒様と言うのだ、などと解説をしたのだった。 信如はもともとこういうことを、人が言われているのさえ聞くのがいやで、苦い顔をして横を向いてしまう性分だから自分のこととなればなおさら我慢など出来ようか。それからは美登利という名前を聞くたびにびくびくして、またあの話になるのかと胸の中はもやくやとして、なんとも言えない嫌な気持ちである。そうであってもいちいち怒っているわけにもいかないので、なるべく知らないふりをして、平気を装って、むずかしい顔をしてやり過ごすつもりだが、差し向かいで何かを聞かれた時のその当惑、大体は分かりませんの一言で済ませるが、苦しい汗が体に流れて心細い気持ちなのだ。 美登利はそんなことも気にならないので、はじめのうちは藤本さん藤本さんと親しく話しかけて、学校が終わっての帰りがけに自分は一足早くて道端に珍しい花などを見つけると、遅れてくる信如を待ち合わせて、これこんな美しい花が咲いているのに枝が高くて私には折れない、信さんは背が高いからお手が届くでしょう、お願い折ってくださいと一団の中では年長であるのを見かけて頼むと、さすがに信如は袖を振り切って行き過ぎることもできず、それでも人の思惑はいよいよ辛いので、手近な枝を引き寄せて良し悪し構わず申し訳ばかりに折って、投げつけるようにすたすたと行き過ぎるのを、ここまで愛嬌のない人なのかと呆れたこともあったが、度重なっての末にはつまりはわざとの意地悪のように思われて、人にはそうもないのに自分にばかり辛い仕打ちを見せてものを問えばろくな返事をしたことがなく、そば...