われから(10/13)学生千葉に何があったか

 (十)


 自分で自分をもてあまし困惑して夫人はわけも分からず混乱していた。この朝晩の空の色、晴れたときでも曇っているようで、光の色は身にしみてあやしい気持がある。時雨の降る夜の風の音は誰かが来て扉を叩いているように聞こえて、切ない気持のまま琴を出してきて好きな曲を一人で弾いてみるが、自分で自分の調べがあわれに思えて、どうしても続けることができない。涙を振りこぼして琴は押しやった。

 ある時は女性たちに肩を叩いてもらいながら、気持ちが浮き立つような恋愛話などを頼んで聞いた。人が聞けば顎が外れるぐらいに可笑しくて、笑い転げるようなしょうもないのさえも、この身にはいちいちあわれであった。私も気持ちが燃えているんだ。

 ある晩、座敷周りで働くフクという女性が声を改めて言った。言わなければ人には分からないことです、言っても私の得にはなりません、でも黙ってはいられませんのは私がおしゃべりだからです。お聞きになっても知らない顔でいてくださりませ、ここに一つのお話しがとややノリ気味で声を弾ませると、それは何なの。

 お聞きください。学生の千葉の、初恋のあわれです。地元におりましたときにひそかに好きになった人がいたそうです。田舎者のことですから鎌を腰に差して藁の草履で、手拭いに草の束を包んでと思うかもしれませんが、なかなかそうではございません、キレイな方で、村長の娘というようなことだそうなんです。小学校に通ううちに浅くない気持ちになりまして、と言うとそれはどちらから、と主人の身辺を担当する小間使いのヨネが口を挟むが、黙って聞いてよ、もちろん千葉さんのほうからだよと言う。あらあの硬派さんがと言って笑いだすと夫人は苦笑した。

 気の毒に、昔の話を探し出したのかと言うと、いえ、そうそう遠い話ばかりではございません、まだ順番に、と襟元を直して咳払いをした。小間使いは少し顔を赤くして、お似合いの二人じゃないですか、辛口のフクが何を言い出すのかと後ろ目でキツめに見ると、それは聞き流して口元を湿らせた。

 まあお聞きください、千葉がその娘を意識するようになってからのことです。朝に学校へ行きますときには必ずその家の窓下を通って、声がするか、もう出かけたか、見たい、聞きたい、話したい、色々なことを思ったと思ってください。学校では何かしら話しましたでしょう、顔も見ましたでしょう、でもそれだけでは物足りなくて、落ち着かなくて、日曜日になるとその家の前の川に必ず釣りに行ったんだそうです。フナやタナゴはいい迷惑だ、釣ってまた釣って、夕日が西へ落ちても帰るのが惜しく、その娘が出てこないか、お魚は残らずあげて、喜ぶ顔が見たいとでも思ったのでございましょうか、ああは見えてもあれでなかなかの苦労人でございます。

 それはまあ、いくつの年でその恋は始まったのかと夫人が言うと、当ててごらんください、向こうは村長の娘、こちらは水ばかり召しあがるお百姓様です、雲に架け橋くらい手が届かない、春の霞に冬の千鳥くらいにありえない、などときれいな言葉では足りないくらいで、簡潔に言えば提灯に釣鐘です。軽くて小さな明るいものと重くて大きな爆音のもの、並べることが無意味です。かなりそこには隔たりがございますけど、恋愛に上下などないならば、まあデキたとお思いですか、おヨネどん何と何とお題を出されて、何か言わせて笑うつもりと邪推をすると、私は知らんと横を向いた。

 夫人は口元で笑って、成り立たなかったからこそ今日のあの人なんでしょ、そんなことが万一でもあるのなら、あのぼさぼさの乱れ髪、お洒落気なしではいられないはずです、それでやけになって、勉強家になったのかな。

 そこはなかなかですね、あれがあなた、やけなど起こすような男でございましょうか、無常を悟ったのでございますよ。

 それならその娘は亡くなったのかな、お気の毒にと夫人は同情する。

 フクが調子に乗って言う。この恋愛、言うも言わないもないですよ、子供のことですから心の中で思うだけで、表面上は何もない期間をだいたいどのぐらい送ったものでしょうか、今の千葉の様子をご覧になれば、あれの子供の時ならとたいていは納得できるでしょう、病気に罹って、お寺の人間になりましたが、その後は何と思っていたかといっても答えるものは松の風というので、どうにも仕方がないではございませんか、さてそれからが本題でございます。そう言って笑った。

 フクのいい加減な作り話ね、本当みたいな嘘を言う、と夫人が相手にしないでいると、あれ、何しに嘘を申しますか、そうであってもこれをお耳に入れたというと少し私が困る筋です、これは本人の口から聞いたのでございます。そう言った。

 嘘を言って、あれがどうしてそんなことを言いますか、もしあったにしても、苦い顔で押し黙っているはずです、やっぱり嘘ね、と言うとそれはひどいですよ、そんなに私を信用して下さらないんですか。

 昨日の朝、千葉が私を呼びまして、奥様がこの四五日おすぐれでないように見受けられる、いかがあそばしてか、といかにも心配そうに申しますので、奥様は血の道のせいで時々ふさぎ症におなりになることもあるし、本当に悪い時は暗いところで泣いていらっしゃるのが性分なのだ、と言ったんです。そしたらどんなにかあなた、びっくりいたしまして、とんでもないことだ、それは大変な神経症だ、悪くすると取り返しのつかないことになると申しまして、それでその時にこう申しました。

 私の郷里の幼な友達にこういう娘がいて、癇の強い、はっきりとして、ここの奥様にどうにもよく似ていた人だった。継母だったので普段の忍耐が並大抵ではなく、それが積もって病死した気の毒な娘だと、そこはあの男のことでございますから、真面目な顔でリアルに話していました。それを私がつなぎ合わせて考えると、今お話ししたような事になるのでございます。その娘に奥様が似ていると申したのは、それは嘘ではございませんけれど、露見しますと彼に私が叱られます、ご存じないことに。

 舌を回して叩き立てる太鼓の音、それは賑わしく響き渡ったのだった。

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