われから(5/13)そうなりましたか
(五)
与四郎の気持ちは変わらなかった。一日も百年も同じという日々を送っていたが、その頃から美尾のようすはとにかく不審であった。ぼんやりと空を眺めてものの手につかない奇妙さ。与四郎が気を付けて事態を見ると、まるで恋愛に心を奪われた人のようで、お美尾、お美尾と呼ぶと何よと答える言葉の力の無さ、日々はどうでも義務のように送って体はここに心はどこの空をさまようのか、物事の一つ一つが気にかかるが、我が妻を他人に取られて知らないのは夫だけと後ろ指をさされるのも口惜しいので、ホントに本当にそんなのあったらと恐怖の思考までも思い詰めて、美尾の分身になったかのように見守った。
けれどもこれだという証拠もなくて、ただうかうかともの思うようで、ある時しみじみと泣いて言った。お前様、いつまでこれだけの賃金いただいていらっしゃるつもりですか、お向かいの屋敷の旦那様は、昔は大部屋にいた方でしたが自己啓発というのであのご出世で、馬車に乗ってのお姿はどんな髭武者だって立派っぽく見えるではありませんか、お前様も男でしょう、少しでも早くこういった古服にお弁当さげる事をやめて、道を行けば人が振り返るくらいの立派なお人になってください、私に竹の皮包みを持ってきてくださる誠実があれば、お役所帰りに夜学なり何なりして、どうか世間の人に負けんように、いっぱしの偉い方になってください、お願いでございます、私はそのためなら在宅とかもしてお惣菜もののお手伝いはします、お願いしますと心からの涙を流して、この無意味な生計をあげてゆくと、与四郎は自分が愚弄されたんだと思い腹立たしくて、お前のためをの夜学ネタは俺を留守にして自分の快楽を考えたからだと一途にくやしくて、どうせ俺はこんないくじなしだ、馬車とか考えたこともない、今後も人力車引くか分かったものじゃないから今のうちに自分のおさまりどころを考えて利口で仕事のできる、インテリでイケメンで、年も若いのに乗り換えれば一番だろ、向かいの旦那もお前のビジュアル褒めているらしいと聞いたぞと、ロクでもない事をむしかえして、怠け者だなまけものだ、俺はナマケモノの意気地なしだと大の字に寝そべって、夜学などとんでもなく翌日は出勤するのさえ嫌がって、一ミリもお美尾のそばを離れんぞというのだった。
ああ、お前様はなぜそんなに聞き分けてくださらんのと情けなく、互いの気持ちはそわそわとするようになり、何か言えばやがて争いの糸口が引き出され、泣いて恨んですれすれの中に、それでも憎からぬ夫婦はおりふしにしてきたこと忘れられず、あなたこうしなさい、ああしなさいと言うと、お美尾お美尾と眼の中にも入れたい気持ちになる。隣り近所はつつきあって、いさかいに口をはさむ者はいなかった。
あの梅見の留守の時に、実家の迎えだと金の紋章の車が来た頃から、美尾は何かともの思いに静まって、あまり夫を責めることもせず、うつうつと日々を送って実家へ向かうことじつに頻繁になり、帰ると襟にあごをうずめてひそかにため息をつく。夫が不審がると、どうも心地が悪うございますからと食事もよくはできず、昼寝がちに無精がちになって、だんだんと顔色が青くなるのを、とにかく病気なのだと思っているので、与四郎の心痛は限りなく、医者にかかれ、薬をのめとやきもちは忘れてこのことに心血を注いだ。
けれども美尾の病とはおめでとうの方であった。三四月の頃からはっきりそれと分かって、いつしか梅の実の落ちる五月雨の頃にもなると、近隣の人々からおめでとうございますとあからさまに言われて、折から少し暑くても半天を脱げない恥ずかしさだ。与四郎は珍しく嬉しいので夢かとばかりに思われて、この十月がその月というので人には言わないが指を折る気持だ。男ででもあってくれたらとはかない予想を立て、表面上は冷静にしていても安産のお守りがどうとか人から聞いてきたことをそのまま、不案内な男性の立場なので間違いだらけであり、美尾の母親に全てお任せすると、あなたよりは私の方が少しは、と来られて、なるほどなるほど、と黙った。

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