われから(9/13)その孤独

(九)


 この家は町子十二才の時に、父の与四郎が借金の担保として手に入れて、そこから修繕は加えたけれども水の流れ、山の佇まい、松の木枯らしの小高い響きもただその昔のままであった。町子は酔い加減が夢のようで、振り返って後ろを見ると、雲間の月は仄明るく、社の前の鈴の古びた姿や、紅白の綱が長く垂れて古い鏡が神々しく光を放つのも見える。夜の強い風がさっと四角い格子を鳴らすと、人がいないから鈴がカラリと音を立て、木の神具に挟まれた紙が揺れるのも淋しい。



 町子はとつぜん恐ろしくなった。立ち上がって二足三足、母屋のほうへ帰ろうとしたが、引き止められるように立ち止まって、今度は狛犬の台石に寄りかかり、木の間を洩れてくる座敷の騒ぎを遥かに聞いて、ああ、あの声は旦那様、三味線は小梅のような、いつの間にあんな粋な女性になりなさったか、油断ならないと思うと同時に心細さに耐えられなくなって、締め付けられるような苦しさが胸の中のどこからともなく湧きあがった。

 ややしばらくして夫人はおおかた酔いも醒めたので、怪しく乱れたその気持ちを自責して、戻って杯盤狼藉の有様を見た。客方の迎えの車が綺羅星のごとく門前に並んで、何様お立ちの声は賑わしい。散会の後は時雨になった。


 ホスト役の恭助はひどく疲れていて、礼服を脱ぐこともせずに横になっている。それをああ、あなたお召し物だけはお替えになって、それではよくありませんと羽織を脱がせて帯も妻みずから解いて、柔らかい絹平織にフランネルを重ねた寝室用の小袖に着替えさせ、ではおやすみをと手を取って手伝うと、なにそんなに酔ってはいないと言って、よろめきながら寝室へと入った。

 妻は火の元の用心を、と言い渡してだれもかれも寝なさいと言って、同じく寝室に入ったが、なぜとはなく安らげない気持ちがあって、言葉には出ないが表情の普段と違うのを夫は半睡の眼でとらえた。なぜ寝ない、何を考えているのと尋ねると、妻は何かご返事をお聞かせすることもないのですが、ただただ不思議な気持ちがいたします、どういたしたのでございましょう、わたくしにも分かりませんと言うと、夫は笑って、あまり気を使い過ぎたせいだろう、気持ちが落ち着きさえすれば治るさと言ってくれたが、いえそれでもわたしは言うに言われない淋しい気持ちがするのでございます。

 先ほど皆さまがお酒をお勧めになるのがあまりうるさくて、一人で庭へと逃げまして、お稲荷様のお社のところで酔いを醒ましておりましたに、わたしはへんなへんな、おかしいことを思いつきまして、笑って下さいますな、どうにも何とも言われない気持ちになりました、あなたには笑われて、叱られるようなことでございましょ。

 そう言って下を向いている。見れば涙が玉のようにこぼれて膝に落ちる。分からない。

 妻はいつもの妻ではなくて、沈みに沈んで、わたしはあなたに捨てられはしないかと思いまして、それでこのように淋しく思いますと言い出した。夫はまたか、と無造作に笑って、誰が何を言ったのか、一人で考えたのか、そんな仕方のないことがあるわけがない、お前が思ってくれるほどに世間は俺を思ってくれないから、まあ安心していればいいんだと、大したこともないように言い捨てたが、それでもわたしはそんな嫉妬の気持で言うのではありません。


 今日の会席、賑やかで、色々な方々がおいでになる中で世間で知られていない方はどなたもいない、こんな方々があなた様のご友人かと思いますと嬉しさが胸に抑えられなくて、陰ながら拝んでいても良い位の申し訳なさですが、つくづく我が身の上を思いますと、あなたはこれからもっともっと上にゆかれて、広い世界を見られて、人間も磨かれる。

 今日、小梅の三味線に合わせて披露された勧進帳、嫉妬ではないけれどあれほど練習を積んでいたのも知らず、いつもかつてのあなたと思っていた。この浅はかな気持の底が分かってゆくうちに、わたしを嫌になる原因も入ってくるでしょう。無限に広大なこの世界、それに直面すれば情報も光景も蓄積されてくるのが当然だ。でも有限のこの家の中で朝夕に物思いされるご心労も分からずにわたしはただぼんやりと過ごす。けっきょく飽きられますよね。そんなふうになって悲しいに決まってると、今から思ってもつらい。

 わたくしはあなたの他に頼れる親兄弟もいない。前々から父の与四郎の生前のことはご存じのとおり、わたくしのことは母親似の顔立ちを見るたびにイライラするといって寄せつけてもくれなくて、朝夕さびしく過ごしていましたのを、嬉しい縁で今こうしてわたくしの我がままも受け入れてもらえて、思い悩むこともない毎日です。そんな申し訳ない程の有難さも、もしかして不相応なことだったらと心配になって、それを考えると今日のさびしかったことを、どうにもできない切なさがあって、言ってはいけないと思いましたが結局こうやって申し上げてしまいました。


 どっちにしても取り留めのない取り越し苦労なのでしょうけれど、どうにもこういう気持ちになるのをどうしたら良いのでしょう「ただただ不安なのです」

 夫は、愚痴や僻みの際限の無さを思った。嫉妬からだ、と可笑しくもあった。

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