たけくらべ(十四〜十六)旅立ち

十四


 この年は三の酉まであって、中の一日はつぶれてしまったが前後の上天気のために大鳥神社の賑わいはすさまじく、これにかこつけて検査場の門から乱入する若者たちの勢いなどは天柱がくだけ地維が欠けるかと思える笑い声のどよめきだ。中之町の通りはにわかに方角が変わったように思われて、角町京町ところどころの跳ね橋からさっさ押せさっさ押せと猪牙がかった言葉で人波を分けてゆく群れもある。河岸の小店の百囀りから遥かにうず高い大籬の楼上まで、絃歌の声が様々に湧きくるような面白さは、大方の人が思い出して忘れないものに感じるに違いない。

 正太はこの日、日掛けの集金を休ませてもらって三五郎の大頭の店を見舞ったりした。そして団子屋の背い高があまり愛想なくやっている汁粉屋を訪れて、どうだ儲けがあるかと言うと、正さんお前いいところに来た、自分の餡こが種無しになってしまう今からは何を売ろう、すぐに煮かけてはおいたけど途中でお客様は断れない、どうしような、と相談を持ちかけられて、知恵のない奴め大鍋のまわりにそれだけの無駄が付いているではないか、それにお湯を回して砂糖だけ甘くすれば十人前や二十人前は浮いてこよう、どこでもみなそうするのだお前の店ばかりではない、なにこの騒ぎの中で良し悪しを言う者があろうか、お売りお売りと言いながら先に立って砂糖の壷を引き寄せると、目っかちの母親が驚いた顔をして、お前さんは本当にあきんどに出来ていなさる、おそろしい知恵者だと褒めると、なんだこのようなことが知恵者なものか、いま横町の潮吹きのところで餡が足りないってこうやったのを見てきたので俺の発明ではない、と言い捨てた。そして、お前は知らないか「美登利さんのいるところを」


 俺は今朝から探しているけれど何処へ行ったか筆屋にも来ないと言う。廓だろうかなと聞くと、むむ美登利さんはな今のさっき俺の家の前を通って揚屋町の刎橋から入っていった、本当に正さん大変だぜ、今日はね、髪をこういうふうにこんな島田に結ってと、へんてこな手付きをして、綺麗だねあの娘はと鼻を拭きながら言うと、大巻さんよりなおいいや、だけれどあの子も花魁になるのではかわいそうだと下を向いて正太が答えると、いいじゃあないか花魁になれば、俺は来年から履物屋になってお金をこしらえるがね、それを持って買いにゆくのだと頓馬をあらわすと、しゃらくさいことを言っていらあそうすればお前はきっと振られるよ。

 なぜなぜ。なぜでも振られるわけがあるのだもの、と顔を少し染めて笑いながら、それじゃあ俺も一回りしてこようや、またあとで来るよと捨て台詞をして門に出て、十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ、とあやしい震え声でこの頃この所の流行り節を言って、今では勤めが身に沁みてと口の中で繰り返し、例の雪駄の音高く浮き立つ人の中に混じって小さな体はすぐに隠れてしまった。

 もまれて出た廓の角で、向こうから番頭新造のお妻と連れ立って話しながら来るのを見ると、まぎれもない大黒屋の美登利なのだが確かに頓馬が言ったるように、初々しい大島田を結い錦のように絞り放しをふさふさとかけて、鼈甲の差込み、房付きの花かんざしをひらめかし、いつにない極彩色はただ京人形を見るように思われて、正太はあっとも言わず立ち止まったままいつものようには抱き付きもせずに見守っている、すると。

 これは正太さんかといって走り寄り、お妻どんおまえ買物があるというからもうここでお別れにしましよ、私はこの人と一緒に帰ります、さようならといって頭を下げると、あれ美いちゃんの現金な、もうお送りはいりませぬとかえ、そんなら私は京町で買物しましょ、とちょこちょこ走りで長屋の細道に駆け込むと、正太はようやく美登利の袖を引いて「よく似合います」

 いつ結ったの今朝かい昨日かいなぜはやく見せてくれなかった、と恨めしそうに甘えると、美登利はうちしおれて重い口で、姉さんの部屋でけさ結ってもらったの、わたしはいやでしょうがない、とさしうつむいて往来を恥じた。





十五


 もの憂く恥ずかしく、包み隠すことが自分にあるのか人が褒めるのは嘲りに聞こえて、島田の髪がなつかしいと振り返って見る人達などは自分を蔑む目付きなんだと察せられ、正太さんわたしはうちに帰るよと言うと、なぜ今日は遊ばないのだろう、おまえ何か小言を言われたのか、大巻さんと喧嘩でもしたのではないか、と子供らしいことを聞かれて答えはどうするか顔が赤らむばかりだ。連れ立って団子屋の前を過ぎると頓馬が店から声を掛けてお仲がよろしゅうございますと仰山な言葉で、それを聞く美登利は泣きたいような顔つきをして、正太さん一緒に来てはいやだよと、置き去りにしてひとり足を早めた。

 お酉様へ一緒にと言うのに道を引き違えて我が家の方へと美登利が急ぐと、おまえ一緒には来てくれないのか、なぜそっちへ帰ってしまう、あんまりだぜといつもどおり甘えてかかるのを振り切るようにもの言わず行くと、なんの訳とも分からないが正太はあきれて追いすがり袖を止めてはあやしがると、美登利は顔だけ赤らめてなんでもない、その声には理由がある。


 寮の門をくぐって入ると正太は前から遊びに来なれていてそれほど遠慮する家でもないので、あとから続いて縁先からそっと上がると、母親が見ておお正太さんよく来て下さった、今朝から美登利の機嫌が悪くてみなあぐねて困っています、遊んでやって下されと言うので、正太は大人らしくかしこまって加減が悪いのですかと真面目に聞くのを、いいえと母親はあやしい笑顔をして少したてばなおりましょう、いつでもきまりのわがままさん、さぞお友達とも喧嘩しましょうな、ほんにやりきれぬお嬢様ではあると言って見返ると、美登利はいつのまにか小座敷に布団と掻巻を持ち出して、帯と上着を脱ぎ捨てたばかりだ。うつぶせに伏せてものも言わない。

 正太は恐る恐る枕元に寄って、美登利さんどうしたの病気なのか気分が悪いのか全体どうしたの、とそこまではすり寄らずに膝に手を置いて気持ちばかりを悩ましていると、美登利はさらに答えもなく押さえる袖には忍び音の涙、まだ結い込めていない前髪のその毛が濡れて見えるのにもわけがあるのだと分かってはいるが、子供心に正太はどんな慰めの言葉も出てこなくてただひたすらに困り入るばかりで、ぜんたい何がどうしたんだろう、俺はお前に怒られることはしてもいないのに、何がそんなに腹が立つの、と覗きこんで途方にくれると、美登利は目を拭いて正太さんわたしは怒っているのではありません。

 それならどうしてと聞かれると、憂鬱なこと色々これはどうでも話すことではない包みごとなので、誰かに打ち明けて言う筋のものではない。もの言わず自然と頬が赤くなって、さして何とは言えないが、次第次第に心細い気持ちになる。すべて昨日の美登利の身には覚えのない気持ちを抱いて、ものの恥ずかしさは言いようもなく、できることなら薄暗い部屋の中で誰も言葉をかけることなく我が顔をながめる者なく一人気ままの朝夕を過ごしたい。そうすればこんな憂鬱なことがあっても人目がつつましくなければここまでものを思いはしない。いつまでもいつまでも人形と紙雛を相手にしてままごとばかりしていたらさぞかし嬉しいことだろうに、ええいやいや、大人になるのはいやな事、なぜこのように年などを取る、もう七ヶ月十ヶ月、一年でももとに帰りたいのにと年寄りじみた考えをして、正太がそこにいるのも忘れたように、ものを言いかけるとことごとく蹴散らす。そして、

 帰っておくれ正太さん、後生だから帰っておくれ、お前がいるとわたしは死んでしまうだろう、ものを言われると頭痛がする、口をきくと目が回る、誰も誰もわたしのところへ来てはいやだから、お前も何卒帰ってといつもらしくない愛想尽かしに、正太は理由を知ることができず、煙の中にいるようでお前はどうしてもへんてこだよ、そんなことを言うはずはないのに、おかしな人だね、とこれはいささか口惜しい気持ちで落ち着いて言いながら目には弱気の涙が浮かぶのを、なんでそれに心を置くべきか帰っておくれ、帰っておくれ、いつまでもそこにいてくれるならもうお友達でもなんでもない、いやな正太さんだと憎らしげに言われて、それならば帰るよ、お邪魔様でございましたと言って、風呂場で加減を見る母親には挨拶もせずに、ふいと立って正太は庭先から駆け出したのだった。


十六


 真一文字に駆けて人中を抜けて潜って筆屋の店に躍り込むと、三五郎はいつの間にか店を売り仕舞って、腹掛けの隠しに幾らかをじゃらつかせて、弟妹を引き連れて好きなものをば何でも買えという大お兄さん振りで、大いなる愉快の最中に正太が飛び込んできたのでやあ正さん今お前を探していたんだ、俺は今日はかなりの儲けがある、何か奢ってあげようかと言うと、馬鹿を言え手前に奢ってもらう俺ではないわ、黙っていろ生意気は吐くなといつにない荒いことを言って、それどころではないと言ってふさぐと、なんだなんだ喧嘩かと食べかけのあんぱんをふところにねじこんで、相手はだれだ、龍華寺か長吉か、どこで始まった廓か鳥居前か、お祭りの時とは違うぜ、不意でさえなければ負けはしない、俺が承知だ先棒は振らあ、正さん肝っ玉をしっかりしてかかりねえ、と競いかかると、ええ気の早い奴め、喧嘩ではない、とはいってもさすがに言いかねて口をつぐむと、でもお前が大層な感じで飛び込んだから俺はとにかく喧嘩かと思った、だけれど正さんは今夜始まらなければもうこれから喧嘩の起こりっこはないね、長吉の野郎片腕がなくなるものと言うと、何故どうして片腕がなくなるのだ。

 お前知らないのか俺もたった今うちの父さんが龍華寺の御新造と話していたのを聞いたのだが、信さんはもう近々どこかの坊さん学校へ入るのだとさ、衣を着てしまえば手が出ねえや、からっきりあんな袖のぺらぺらした、おそろしい長いものをまくり上げるのだからね、そうなれば来年から横町も表も残らずお前の手下だよとはやすと、よしてくれニ銭もらうと長吉の組になるだろう、お前みたいなのが百人仲間にいたところでちっとも嬉しいことはない、付きたい方にどの方にでも付きねえ、俺は人は頼まない本当の腕っ子で一度龍華寺とやりたかったに、よそへ行かれては仕方がない、藤本は来年学校を卒業してから行くのだと聞いたが、どうしてそんなに早くなったろう、しようのない野郎だと舌打ちしながら、それは少しも心に止まらないが美登利の素振りが繰り返されて正太はいつもの歌も出ず、大通りの行き来のおびただしささえ心淋しいので賑やかだとも思われず、灯りがともる頃から筆屋の店に転がって、今日の酉の市はめちゃめちゃになり、ここもあそこもあやしいことになった。


 美登利はあの日を境にして、生まれ変わったような身の振舞いとなった。用事のあるときは廓の姉のところに通いこそするが、少しでも町で遊ぶことをしない。友達が淋しがって誘おうと行けば、今に今にと空約束が果てしなく、あれほどに仲が良かったのに正太とすら親しまない。いつも恥ずかしげに顔だけを赤らめて、筆屋の店で手踊りの活発さは再び見るのが難しくなってしまった。人々は怪しんで、病気なのかと危ぶむ者もあるけれど、ひとり母親微笑んでは、今におきゃんの本性は現れまする、これは中休み、と子細ありげに言われ、知らない者には何の事だか分からない。女らしくおとなしくなったと褒める人もあれば、せっかくの面白い子を種なしにしたと誹る人もある。表町はにわかに火の消えたように淋しくなって、正太の美声は聞くことが稀になり、ただ夜な夜なの弓張提燈、あれは日掛けの集金らしく、土手を行く影はどこか寒気で、折節にお供する三五郎の声だけがいつに変わらずおどけて聞こえるのだった。


 龍華寺の信如がその宗の修業の庭に旅立つといううわさも美登利は絶えて聞かなかった。持った意地をそのままに封じ込めて、ここしばらくの怪しの現象に自分を自分とも思われず、ただ何事も恥ずかしいだけであった。

 ある霜の朝、水仙の作り花を格子門の外から差し入れておいた者があった。誰の仕業と知るよしはない。けれど美登利はわけもなく懐かしい気持ちで、違い棚の一輪挿しに入れてその淋しく清い姿を愛でた。そして聞くともなしに伝え聞いたその明くる日は、信如がなにがしの学林に袖の色を変えるべき、その日であったという。


(完)


明治28(1895)年1、2、3、8、11、12月、29年1月『文学界』連載

明治29(1896)年4月『文芸倶楽部』一括掲載


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