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われから(12/13)ついにきた

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十二  十六日の明け方、きのう掃除をした跡が清々しい。収納スペースのような六畳の部屋にこたつを置いて、夫と妻は差し向っていた。今朝の新聞を広げて、政治の世界、ジャーナリズム、語れば答えも尽きない。はた目にはうらやましく見えて楽しそうなんだが、恭助はこの機会にと思っていたようだった。  何年も何一つ不足のない家だけど、子供がないのばかりは残念で、君にあれば本当にうれしいんだが、万一できないものなのなら、今からもらって僕らのやり方で育てていったらと、このことを明け暮れ考えていた。けれど今だに良い人も見つからなくて、年がたてばおれも四十の坂だ。初老じみたことを言うようだが家の跡継ぎが決まらないのは何かにつけて心細く、最近の君のようにさびしいさびしいの言い続けもしなくて良いようなこともあるはず、幸い海軍のトリイの知人のお子さんで、素性も悪くなくて生まれつき利口な男の子があるという。あなたに異存がなければその子をいただいてきちんと育てたらと思ってる。全体の引き受けは鳥居がして、実家にも彼の家からということで、年は十一で、顔かたちは良いそうで。  妻は顔をあげて、夫の表情をどうなのかとうかがっていたが、なるほど、それは良いお考えなので「私にどうこうはございません」  良いとお考えならお取り決めください。ここはあなたのおうちでございますから、どうであれお考えのままに。  落ち着いてそう言いながらも万が一その子であったら、と無情な気持になる。自然と顔色にあらわれた。  なにそう急ぐことでもないんだ。よく考えてその気になったらその時のことで、あまり気持を鬱々とさせて病気にでもなったらいかんから、少しは気が休まるかとも思っていたけど、それも軽率すぎることで、人形じゃないんだし、人ひとりを遊びものにするわけにもいかない、うまくいかなかったといってどこかに捨てることもできん、家の柱にともらうのだから、もう一通り聞き定めもして、よく確認してもみた上でのことだ。  ただ、最近のようにふさいでいたら、体のためにも良くないと思う。これは急がないことにして、ちょっと歌舞伎座にでも行くなんてどうでしょう、三代目中村歌六さんが近くで出ている、播磨屋です。今晩はどうですか、行きませんか。そう機嫌をとってくれたが。  あなたはなぜ、そんな優しいみたいなことをおっしゃいます。私はけっしてそのようなことは伺いた...

われから(13/13)割れた殻

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  十三  色々と物事を考えたせいで、町子には時々発作を起こす癖がついた。  激しい時には仰向けに倒れて、今にも絶え入りそうに苦しい。最初のうちは皮下注射など医師の手を待っていたが、日ごと夜ごとに度重なると、力のある手で強く抑えて一時をしのぐということとなった。これは男性でないとできないことであり、そうなった時には夜であれ夜中であれ、やがては千葉を呼び立てて反り返る背中を抑えさせた。硬派一筋の律儀男、身を挺してのその介護は人々の目に異様に映った。しのびやかなささやきはやがて無沙汰になるものか、隠れ家のような六畳間を人は奥様の癪部屋と呼び、乱行あさましいかのように扱ううち、見る目がそうなのかこの間のことが不審に思え、さらには霜の夜の優しさや羽織の話さえそこに加わって、話は大きく大きくなったんだな。  跡なき風も騒ぐ世に、忍ぶが原の虫の声。露ほどのことも顕われて、奥様マジで悲しい立場となった。  座敷回りのフク。かねてから何となくそのつもりでいた奥様おさがりの紬の王様、本場結城だ。あれこそ我が物よと頼みにしていたのもむなしく何かと千葉の役に立つのならとこれを新年用に仕立てたのを持って行かされた、その恨みは骨髄にまで到達していた。そこからの見る目は横にか逆さにか、美容師のトメ子さんをつかまえて珍事ただいま出来の面持ちでいつもの口車クルンクルンと回したので、この電信がどこまで届いたか、100メートル毎に噂は増幅されたんで、いつしか恭助の耳に入った。  穏やかならん事に胸が騒ぐ。家つきならずはほどこすべき道もあるけど、浮世の聞こえ、これを別居として引き離すことはいかにもしのびない気持ちがある。だからとこのままさし置くんなら内政の乱れが世間の批判の的になって、浅からん難儀が現在の立場に降りかかったらいかさまになせばよ、とあれこれ悩んだ。  我儘もそのまま、気性もそのまま、何を事々しく咎め立てなどするんかよ、金村の妻と言って世に恥ずかしきことないだろよ、とは思うけど、さし置きがたい詮議はとにかくもやかましく、親しい友人たち連れ立っての勧告に今日は今日はと思い立ちながら、なおもその事に及ばずして過ぎていった。  年の立ち返る次の日から松の内が過ぎたらと思い、松を取り去れば十五日くらいのうちにはと思う、二十日も過ぎて一月は無為に、二月は梅にも心のはやることなく、来月は小学校の...

十三夜、目次その他

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十三夜 樋口一葉 目次 (訳文にリンクしています。章分けとサブタイトルは筆者によるものです) その一「ほとほと嫌になりました」 上流家庭に嫁いだ関子はある夜、実家を訪ねた。しかし様子がおかしい(本文「上」前半) その二「調子に乗りやがって」 夫のひどさを訴える娘の話に、母は激怒する。しかし父が口を開くのだった(本文「上」後半) その三「なんでいまさら」 帰りの人力車。ドライバーは、忘れられないあの人であった(本文「下」全文) 登場人物 関子:主人公。原文では「お関」「関」 関子の父親:斎藤主計(サイトウカズエ) 関子の母親:斎藤主計夫人 原田勇:関子の夫(登場しない) 原田太郎:関子の息子(登場しない) 高坂録之助:好きだった男性 構成 上下全二章 約13,000文字 初出 1895(明治28)年12月10日『文藝倶樂部』臨時増刊「閨秀小説」博文館 ※閨秀=優秀な女性 樋口一葉作品現代訳、目次へ

十三夜、その一「ほとほと嫌になりました」

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  上  いつもなら黒く輝く人力車で静々と、ああ玄関で音がやんだ、娘じゃないのかと両親に迎えられていた。それなのに、今夜は流しの車さえも十字路で見送って、悄然と格子戸の前に立つ。  家の中では父親が相変わらず元気な声で、言えばおれも成功者の一人だ、ずっと素直な子供を持って、育てるには手がかからず人にはすごいと言われる、不相応に欲を張らなければこれ以上の望みもない、いやいや有難い事だと話されている。その相手はきっとお母さんだ。ああ何もご存じなくてあんなふうに喜んでおいでになるところに、どの面下げて離婚届を見て下さいと言えるのか。叱られるのは必定だ、太郎という子もあるのに置いて飛び出してくるまでには様々に色々に思案もし尽しての上だけど、いまさらにお年寄りを驚かせてこれまでの喜びを水の泡にさせるのです。つらい。  もう話さずに帰ろうか。帰れば太郎の母と言われていつまでもいつまでも原田の奥様だ、両親には大した夫がいると誇りに思わせ、私さえ節約すれば時々はお口に合うものやお小遣いも差し上げられるのに、思うままを通して離婚となれば太郎には継母の憂き目に遇わせ、両親には今までの誇りの鼻をにわかに低くさせてしまう。他人の思惑、弟の行く末、ああこの私一人の気持から将来の現実を潰してはいけない、帰ろうか、帰ろうか、あの鬼のような我が夫のもとに帰ろうか、あの鬼の、鬼の夫のもとへ、ああいやいやと身を震わす途端によろよろとして思わず格子に「がたん」と音をさせると「誰だ」と父親の大きな声。道行く悪ガキのいたずらだと間違えてるんだ。  外から「おほほ」と笑って、おとっさん私でござんすとどうにも可愛い声。ああ誰だ、誰なんだと格子を引き開けて、おうお関か、どうしたそんな所に立っていて、どうしてまたこんな遅くに出てきた、車もないし女中さんも連れてないのか、まあまあ早く中に入れ、さあ入れ、どうもいきなり驚かされたようで焦るよな、戸は閉めなくていい、俺が閉める、とにかく奥が良い、ずっとお月様のさすほうに、さあ座布団に乗れ、布団に、どうも畳がきたないからオーナーさんに言ってはおいたが職人さんの都合があると言ってさ、遠慮も何もいらない服が汚れるからそれを敷いてくれ、やれやれどうしてこんな遅くに出てきたんだ、お宅では皆さんお変わりもないですか。  いつもの通りにもてなされる。針のむしろに乗るようで奥様扱...

十三夜、その二「調子に乗りやがって」

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   嫁いでから七年の間、夜になってから訪れたことは今までなく、また手土産もなく一人歩きで来ることなど一切なかった。思いなしか服装もいつもほどキラキラしていない。久しぶりに会えた嬉しさでそれほど気にはならなかったが、夫からの伝言というもの一つの言及もなく、無理に笑顔でいるがその奥でどこかしおれている。何か事情がある。父は机の上の置き時計を眺めて「もう10時になるな」  関は泊まっていっても良いのか、帰るのならもう帰らないといけないぞ、と遠くから見るような親の顔を娘は今更のように見上げてお父様「私はお願いがあって出てきたのです」  どうか聞いてくださいとキッとなって畳に手をついた時、はじめてひとしずくの悲しさをこぼした。それは何層にも重なっている。  父は穏やかでない表情を動かして「改まって何だ」と膝を前に進めた。   私は今夜限りで原田には帰らない、その決心で出て参ったのです。勇の許可で参ったのではなくて、あの子を、太郎を寝かしつけて、もうあの顔を見ない決心で出て参りました。私の手でなければまだ誰の子守りでも承知しない、あの子をだまして寝かして夢の中に。私は鬼になって出て参りました。  お父さんお母さん、察して下さい。私は今日まで原田という人についてお耳に入れたことはなく、勇と私の関係を人に話した事はありませんけど、百回も千回も考え直して、二年も三年も泣き尽くして、今日という今日はどうしても離婚を認めて頂こうと決心の気持を固めました。どうかお願い致します離婚を認めて下さい、私はこれから在宅仕事でも何でもして、亥之助の片腕にもなれるよう心掛けますから、生涯一人で置いてください。  ああと声が出るのを上着の下の袖で強く押さえた。水墨画の竹の幹が、紫に滲んで見えて切ない。いったい何があったのかと父も母も距離を縮めた。  今までは黙っていましたけど、私の家の夫婦差し向かいを、半日見ていただければ大体お分かりになるでしょう、ものを言うのは用事のある時にいきなり申しつけられるだけで、朝起きてご機嫌を伺うとふと横を向いて、庭の草花を不自然に褒める、腹は立ちますが夫のなさることだからと我慢して私は何も言い争ったことはありませんけれど、朝ご飯をあがる時からお説教が止まらず、使っている方たちの前でいちいち私自身の不器用不作法をお並べになり、それはまだまだ辛抱もするわけなんですが...

十三夜、その三「なんでいまさら」

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  下  明るい月に風の音が響く。虫の声は途切れがちでものがなしく、上野に入ってからまだやっと百メートルくらいかと思っていると、どうしたのか車夫がぴたりと梶棒を止めた。誠に申し訳ございませんがわたくしはこれで失礼をいたします、お会計はいただきませんのでお降りになってください、突然そう言われて思いがけず関子は胸をどきどきとさせた。  あぁあなたそんなことを言っては困ります、少し急ぎの用事でもあるので割増もしますからご足労をお願いします、こんなさびしいところだと代わりの車もないでしょうし、これは困ってしまいますよ、事情がありそうだけど進んでください。少しふるえながら、頼み口調でそう言った。  上乗せが欲しいというわけではないのです、わたくしからのお願いです。どうかお降りください、もう引くのがいやになったのでございます。車夫がそう言った。  それではあなた具合でも悪いのですか、まあどうしたと言うのですか、ここまで引いてきていやになったでは済まないんじゃないですか、と声に力を入れて、キツめに車夫に言った。  申し訳ございません、もうどうにもいやになったのですんで、と言って提灯を持ったまま、ふと脇に逃げた。あなたはわがままの車屋さんですね、それならお願いした場所までとは言いません、代わりの車のあるところまで行ってくれればそれで良いです、お会計はしますからどこでもその辺りまで、せめて広小路までは行ってくださいよと声を優しくしてお願いすると、たしかにお若い方でもありこのさびしいところに降ろされては確実にお困りになりますね、これはわたくしが至りませんでした、ではお乗りいただきます、お供いたします、まあ驚きますよねと言ってワルモノらしくもなく提灯を持ちかえた。  関子はここで胸に手をやり、車夫の顔を見た。二十五六だろうか、色黒で身長は低い。痩せ気味で、顔は月にあてないように背けている「あの顔は、誰かだった」  誰かに似ている。人の名前もすぐそこまで出かかっている「もしかしてあなた」と勝手に出た言葉に「え」と驚いて振り仰ぐ男。あぁあなたはあの方じゃないですか、まさか私をお忘れではないでしょうと車からあわただしく降りてつくづくと見つめた。  あなたは斎藤のお関さん、お恥ずかしいこんな格好で、後ろが見えないから何も気付かずにいましたが、それでも声で気が付くはずなのに、自分は相当に感...

わかれ道、目次その他

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わかれ道 樋口一葉 初出:1896(明治29)年1月『國民之友』 上中下、全三章 約八千字 主な登場人物 ※年齢、名前等、多少変更しました 吉三(吉):傘屋で働く二十前の若者(原文では十六才) 京子(お京):二十代後半の女性職人。服飾で生計を立てている(原文では「お京」「二十才余り」) 目次 ※各ページにリンクしています。サブタイトルは筆者によるものです 上《京子と吉》 中《吉三》 下《わかれみち》 樋口一葉作品現代訳、目次へ