投稿

われから(8/13)そして町子

イメージ
(八)  現世の欲望を金に集中して約十五年間のもがき、それは人からは赤鬼という異名を負わせられ、五十に届かぬ生涯は燃え尽きた灰のように終わった。そして残った数億円、今の玉村恭助氏とはその与四郎の婿養子なのだった。あの人はあれほどの身分で他人の姓を名乗らなくても、との誹謗もあったけど、何事もなく目指す道に入り、家内を振り返るやましさもないのはこれ全て、養父の贈り物なのだな。  だからこそ妻の町子はそのまま寵愛の手の平に乗り、わざわざ夫を下に見ることもないけれど、義父義母おられて万事窮屈に堅苦しいお嫁御寮の身とは違って、観たいと思えば全公演の参戦も誰が苦情を申すのか。花見月見に旦那様を誘い出し、お帰りの遅い時にはどこまでも電話をかけて、夜は更けても寝なさらず、あまりに恋しく慕わしい時には我ながら少しは恥ずかしい気持ち、どうしてなのかと分かりもしないが旦那さまのいらっしゃらない時には心細さ耐え難く、兄のように親のように頼もしい人に思われた。  それなのに時には地方遊説などといって三か月六か月のお留守もあり、温泉巡りのそれとは違うのでこの時には甘えることもならず、ただひたすらのご文通である。互いの封筒の中、人には見せられぬ事柄は多かったはず。このラブラブで何故にお子様がない。相連れ添って十年余り、夢にもそんな気配はなくて、上野清水観音堂の木像様に何回むなしいお願いをしたであろう。夫は寂しさのあまり養子を取るかと言うけれども、妻の好みもあるけれどもこれも縁のないままである。  落ち葉の朝、霜の朝は深くて吹く風がじつに身に寒い。時雨の降る夜は女性たちをコタツ部屋に集合させ、世の中の話や読んだ本の話、お笑いキャラの若い娘が何かネタっぽいことを言って、いいなと思うと何かしら褒美をつかわす。人にものをあげることは幼少期からの趣味で、これを父親はとにかくいやがった。一言でいえばお天気体質なのか、心にぐっとくる言葉が一つでもあれば後先考えられずに相手のことが可愛く思えて、人力車夫の茂助の一人っ子の与太郎に、この年明けに夫が初めて着たばかりの斜子織の羽織をつかわされたのも深い理由などないことである。その場の愚痴話で正月の服がございませぬ由を大ざっぱに申したのをそのまま憐れに思っての賜り物だ。茂助は天地に拝礼し、人は鷹の羽根の紋章に意味もなく注目した。だからなんなんだというのでもなくこの妻、...

われから(9/13)その孤独

イメージ
(九)  この家は町子十二才の時に、父の与四郎が借金の担保として手に入れて、そこから修繕は加えたけれども水の流れ、山の佇まい、松の木枯らしの小高い響きもただその昔のままであった。町子は酔い加減が夢のようで、振り返って後ろを見ると、雲間の月は仄明るく、社の前の鈴の古びた姿や、紅白の綱が長く垂れて古い鏡が神々しく光を放つのも見える。夜の強い風がさっと四角い格子を鳴らすと、人がいないから鈴がカラリと音を立て、木の神具に挟まれた紙が揺れるのも淋しい。  町子はとつぜん恐ろしくなった。立ち上がって二足三足、母屋のほうへ帰ろうとしたが、引き止められるように立ち止まって、今度は狛犬の台石に寄りかかり、木の間を洩れてくる座敷の騒ぎを遥かに聞いて、ああ、あの声は旦那様、三味線は小梅のような、いつの間にあんな粋な女性になりなさったか、油断ならないと思うと同時に心細さに耐えられなくなって、締め付けられるような苦しさが胸の中のどこからともなく湧きあがった。  ややしばらくして夫人はおおかた酔いも醒めたので、怪しく乱れたその気持ちを自責して、戻って杯盤狼藉の有様を見た。客方の迎えの車が綺羅星のごとく門前に並んで、何様お立ちの声は賑わしい。散会の後は時雨になった。  ホスト役の恭助はひどく疲れていて、礼服を脱ぐこともせずに横になっている。それをああ、あなたお召し物だけはお替えになって、それではよくありませんと羽織を脱がせて帯も妻みずから解いて、柔らかい絹平織にフランネルを重ねた寝室用の小袖に着替えさせ、ではおやすみをと手を取って手伝うと、なにそんなに酔ってはいないと言って、よろめきながら寝室へと入った。  妻は火の元の用心を、と言い渡してだれもかれも寝なさいと言って、同じく寝室に入ったが、なぜとはなく安らげない気持ちがあって、言葉には出ないが表情の普段と違うのを夫は半睡の眼でとらえた。なぜ寝ない、何を考えているのと尋ねると、妻は何かご返事をお聞かせすることもないのですが、ただただ不思議な気持ちがいたします、どういたしたのでございましょう、わたくしにも分かりませんと言うと、夫は笑って、あまり気を使い過ぎたせいだろう、気持ちが落ち着きさえすれば治るさと言ってくれたが、いえそれでもわたしは言うに言われない淋しい気持ちがするのでございます。  先ほど皆さまがお酒をお勧めになるのがあまりうるさくて、一人...

われから(10/13)学生千葉に何があったか

イメージ
  (十)  自分で自分をもてあまし困惑して、夫人はわけも分からず混乱していた。この朝晩の空の色、晴れたときでも曇っているようで、光の色は身にしみてあやしい気持がある。時雨の降る夜の風の音は誰かが来て扉を叩いているように聞こえて、切ない気持のまま琴を出してきて好きな曲を一人で弾いてみるが、自分で自分の調べがあわれに思えて、どうしても続けることができない。涙を振りこぼして琴は押しやった。  ある時は女性たちに肩を叩いてもらいながら、気持ちが浮き立つような恋愛話などを頼んで聞いた。人が聞けば顎が外れるぐらいに可笑しくて、笑い転げるようなしょうもないものさえも、この身にはいちいちあわれであった。私も気持ちが燃えているんだ。  ある晩、座敷周りで働くフクという女性が声を改めて言った。言わなければ人には分からないことです、言っても私の得にはなりません、でも黙ってはいられませんのは私がおしゃべりだからです。お聞きになっても知らない顔でいてくださりませ、ここに一つのお話しが、とややノリ気味で声を弾ませると「それは何なの」  お聞きください。学生の千葉の、初恋のあわれです。地元におりましたときにひそかに好きになった人がいたそうです。田舎者のことですから鎌を腰に差して藁の草履で、手拭いに草の束を包んでと思うかもしれませんが、なかなかそうではございません、キレイな方で、村長の娘というようなことだそうなんです。小学校に通ううちに浅くない気持ちになりまして、と言うとそれはどちらから、と主人の身辺を担当する小間使いのヨネが口を挟むが、黙って聞いてよ、もちろん千葉さんのほうからだよと言う。あらあの硬派さんがと言って笑いだすと夫人は苦笑した。  気の毒に、昔の話を探し出したのかと言うと、いえ、そうそう遠い話ばかりではございません、まだ順番に、と襟元を直して咳払いをした。小間使いは少し顔を赤くして、お似合いの二人じゃないですか、辛口のフクが何を言い出すのかと後ろ目でキツめに見ると、それは聞き流して口元を湿らせた。  まあお聞きください、千葉がその娘を意識するようになってからのことです。朝に学校へ行きますときには必ずその家の窓下を通って、声がするか、もう出かけたか、見たい、聞きたい、話したい、色々なことを思ったと思ってください。学校では何かしら話しましたでしょう、顔も見ましたでしょう、でもそ...

われから(11/13)聞いてしまった

イメージ
 ( 十一)  今年も今日、十二月の十五日だ。世の中が押し詰まってきて、人々が大通りを慌ただしく行き交う。勝手口は出入りの商人や歳暮の持参者で賑わっている。気の早い家では餅を搗く音さえ聞こえるけれど、この家では煤取りの笹の葉が座敷に零れ落ち、藁だけで作った「冷やめし草履」が廊下のあちこちに乱れ散っている。雑巾がけをする者、畳を叩く者、家内の調度品を磨いて回る者がいる。振る舞われた酒に酔ってお荷物になっている者もいる。是非お申しつけ下さいと出入りの人々がお手伝いお手伝いにと煩わしいのを半分はお断りして、薄いブルーグリーン「瓶覗き」色の手拭いをそれ、と切って配ると、一同が手に手にそれをかぶる。姉様かぶり、唐茄子かぶり、頬かぶり、吉原かぶりをする者もいる。  主人の恭助は朝から外出しており、代わって指示を与える妻の 、町子であった。着物の裾の端を片手に友禅染めの長襦袢を長く引きずって、赤い鼻緒の草履は麻の裏地だ。あれだ、これだ、と仰せ付けている。  ひとしきり終わっての午後、お茶菓子が山のように搬入されて「大皿鉄砲撒きだ」「ぶんどり次第だ」とアナウンスがあり、町子夫人はしばし二階の小部屋で休憩して、気疲れから解放された。彼女は「血の道」が強かった。胸苦しさが耐え難くて枕と小型の掻巻で仮眠をとる。小間使いのヨネの他に、誰もそのことを知る者はいなかった。  とろとろとして目覚めると、枕元の縁側で男女の話し声がする。それほど遠慮する感じでもなく、ここの旦ジョンが、奥ションが、とタクシー会社の休憩室で言うようなのは、奥様がここにとは夢にも思わんのだな。  一人は座敷周りのフクの声だ。丁寧にていねいにとおっしゃるけれど、一日仕事にどうしてそうは行き渡られない、隅ずみ隈ぐまやっておいてもやり残しはあるんだから、目につくところをざっと仕事して、あとはどうにでもするよ。それで丁度いい加減に疲れてしまう、そんなにあなた正直で勤まるものか、とばかにしたように言った。ほんとだよ、と言う相手は茂助のところの安五郎の声だよ「飯田町のお波のことを知ってるか」  そう聞かれてお福は、もう百年前からと言わんばかりに、それをご存じないのはここの奥様お一人で、知らぬは亭主の逆パターンだね、私はまだ見たことないけど色の浅黒い面長で、品が良いと言うじゃないですか、あなたは親方の代行でお供を申すこともある...

われから(12/13)ついにきた

イメージ
十二  十六日の明け方、きのう掃除をした跡が清々しい。収納スペースのような六畳の部屋にこたつを置いて、夫と妻は差し向っていた。今朝の新聞を広げて、政治の世界、ジャーナリズム、語れば答えも尽きない。はた目にはうらやましく見えて楽しそうなんだが、恭助はこの機会にと思っていたようだった。  何年も何一つ不足のない家だけど、子供がないのばかりは残念で、君にあれば本当にうれしいんだが、万一できないものなのなら、今からもらって僕らのやり方で育てていったらと、このことを明け暮れ考えていた。けれど今だに良い人も見つからなくて、年がたてばおれも四十の坂だ。初老じみたことを言うようだが家の跡継ぎが決まらないのは何かにつけて心細く、最近の君のようにさびしいさびしいの言い続けもしなくて良いようなこともあるはず、幸い海軍のトリイの知人のお子さんで、素性も悪くなくて生まれつき利口な男の子があるという。あなたに異存がなければその子をいただいてきちんと育てたらと思ってる。全体の引き受けは鳥居がして、実家にも彼の家からということで、年は十一で、顔かたちは良いそうで。  妻は顔をあげて、夫の表情をどうなのかとうかがっていたが、なるほど、それは良いお考えなので「私にどうこうはございません」  良いとお考えならお取り決めください。ここはあなたのおうちでございますから、どうであれお考えのままに。  落ち着いてそう言いながらも万が一その子であったら、と無情な気持になる。自然と顔色にあらわれた。  なにそう急ぐことでもないんだ。よく考えてその気になったらその時のことで、あまり気持を鬱々とさせて病気にでもなったらいかんから、少しは気が休まるかとも思っていたけど、それも軽率すぎることで、人形じゃないんだし、人ひとりを遊びものにするわけにもいかない、うまくいかなかったといってどこかに捨てることもできん、家の柱にともらうのだから、もう一通り聞き定めもして、よく確認してもみた上でのことだ。  ただ、最近のようにふさいでいたら、体のためにも良くないと思う。これは急がないことにして、ちょっと歌舞伎座にでも行くなんてどうでしょう、三代目中村歌六さんが近くで出ている、播磨屋です。今晩はどうですか、行きませんか。そう機嫌をとってくれたが。  あなたはなぜ、そんな優しいみたいなことをおっしゃいます。私はけっしてそのようなことは伺いた...

われから(13/13)割れた殻

イメージ
  十三  色々と物事を考えたせいで、町子には時々発作を起こす癖がついた。  激しい時には仰向けに倒れて、今にも絶え入りそうに苦しい。最初のうちは皮下注射など医師の手を待っていたが、日ごと夜ごとに度重なると、力のある手で強く抑えて一時をしのぐということとなった。これは男性でないとできないことであり、そうなった時には夜であれ夜中であれ、やがては千葉を呼び立てて反り返る背中を抑えさせた。硬派一筋の律儀男、身を挺してのその介護は人々の目に異様に映った。しのびやかなささやきはやがて無沙汰になるものか、隠れ家のような六畳間を人は奥様の癪部屋と呼び、乱行あさましいかのように扱ううち、見る目がそうなのかこの間のことが不審に思え、さらには霜の夜の優しさや羽織の話さえそこに加わって、話は大きく大きくなったんだな。  跡なき風も騒ぐ世に、忍ぶが原の虫の声。露ほどのことも顕われて、奥様マジで悲しい立場となった。  座敷回りのフク。かねてから何となくそのつもりでいた奥様おさがりの紬の王様、本場結城だ。あれこそ我が物よと頼みにしていたのもむなしく何かと千葉の役に立つのならとこれを新年用に仕立てたのを持って行かされた、その恨みは骨髄にまで到達していた。そこからの見る目は横にか逆さにか、美容師のトメ子さんをつかまえて珍事ただいま出来の面持ちでいつもの口車クルンクルンと回したので、この電信がどこまで届いたか、100メートル毎に噂は増幅されたんで、いつしか恭助の耳に入った。  穏やかならん事に胸が騒ぐ。家つきならずはほどこすべき道もあるけど、浮世の聞こえ、これを別居として引き離すことはいかにもしのびない気持ちがある。だからとこのままさし置くんなら内政の乱れが世間の批判の的になって、浅からん難儀が現在の立場に降りかかったらいかさまになせばよ、とあれこれ悩んだ。  我儘もそのまま、気性もそのまま、何を事々しく咎め立てなどするんかよ、金村の妻と言って世に恥ずかしきことないだろよ、とは思うけど、さし置きがたい詮議はとにかくもやかましく、親しい友人たち連れ立っての勧告に今日は今日はと思い立ちながら、なおもその事に及ばずして過ぎていった。  年の立ち返る次の日から松の内が過ぎたらと思い、松を取り去れば十五日くらいのうちにはと思う、二十日も過ぎて一月は無為に、二月は梅にも心のはやることなく、来月は小学校の...

十三夜、目次その他

イメージ
十三夜 樋口一葉 目次 (訳文にリンクしています。章分けとサブタイトルは筆者によるものです) その一「ほとほと嫌になりました」 上流家庭に嫁いだ関子はある夜、実家を訪ねた。しかし様子がおかしい(本文「上」前半) その二「調子に乗りやがって」 夫のひどさを訴える娘の話に、母は激怒する。しかし父が口を開くのだった(本文「上」後半) その三「なんでいまさら」 帰りの人力車。ドライバーは、忘れられないあの人であった(本文「下」全文) 登場人物 関子:主人公。原文では「お関」「関」 関子の父親:斎藤主計(サイトウカズエ) 関子の母親:斎藤主計夫人 原田勇:関子の夫(登場しない) 原田太郎:関子の息子(登場しない) 高坂録之助:好きだった男性 構成 上下全二章 約13,000文字 初出 1895(明治28)年12月10日『文藝倶樂部』臨時増刊「閨秀小説」博文館 ※閨秀=優秀な女性 樋口一葉作品現代訳、目次へ